ディズニー映画実写版ムーランの中国での評価が悪い理由を紹介!

ディズニー実写

ディズニーの実写版映画「ムーラン

公開前からも何かと話題を振りまいていましたが、いざ蓋を開けるととんでもない酷評のオンパレード

中には「言われるほどひどくない、よかった。」という人の意見も聞こえますが、そういう感想を持った人は明らかに少数です。


中国ではディズニープラスでの配信ではなく、映画館での公開が9/11より始まりましたが、公開最初の週末での売り上げは23億3千ドルと期待を裏切った結果となっています。

今回の「ムーラン」は中国でヒットするように作られた、と散々太鼓持ち記事でもてはやされていましたが、なぜこのような結果になってしまったのでしょうか?

中国という舞台を忠実に再現して、中国人観客に受け入れられる映画にしたはずでしたが、調べてみると、それは上辺だけのリップサービスだったことが分かったのでした。










ディズニー映画実写版ムーランの中国での評価



ディズニーの実写版映画「ムーラン」の中国での評価を調べてみると9/14時点で10点満点中4.9点という結果を発表している大手映画評価サイトがありました。

映画を視聴したレビューを見てみると、

・ムーランという国民的キャラクターのことを正確に理解しているとは思えない。ムーランとキャラクターを使ってフェミニズムを主張したいだけ。

・この映画は西洋諸国に蔓延するステレオタイプ的な東洋の雰囲気とアイコンをごちゃまぜにしただけ。

アメリカ人が思い描いている中国を映像化しただけ。魔法とお姫様の世界の話なんだから現実味を求めるほうがおかしいのでは。

などなど。


中には映画を肯定的にとらえて上でのレビューもありましたが、映画に肯定的であっても「所詮作り物」、「所詮おとぎ話」という、自国の老若男女、誰もが知っている国民的ヒーローと自分たちの文化、歴史、伝統をアメリカ人ごときが理解できるはずがない、という考えが根底にあるように感じてしまいました。


実際に映画の中で確認出来て問題になっている、アメリカ人が考える表面的でステレオタイプの中国を見ていたいと思います。

中国で評価が悪い理由



それでは中国で評価が悪い理由を順にあげていきたいと思います。

中国の伝統&文化を表面的にしか反映させていない



まずは中国の伝統や文化を中途半端にしか理解していない」まま、ただ映像にしたらきれいだろうということで映画の中に取り入れたのが問題です。
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たとえて言えば、日本を舞台にした映画で、全ての人々が白川郷の合掌造りの家に住んでいるような描写をしてみたり、真昼間から黒装束の忍者が町中を走り回っていたり、無法地帯よろしくヤクザの集団が団体で町中を闊歩して抗争をしていたり、といった描写がなされているようなものと想像すればいいでしょうか。

こういうシーンが映画に出てくれば、日本人なら誰でも「ああ、またか。それにしてもアメリカ人は忍者やヤクザが好きだな。」と冷めた目で見てしまい、所詮アメリカ人に本当の日本を描くことは無理、と思うことでしょう。


実写版「ムーラン」の中にも同じような問題が山積していたのでした。

ムーランの故郷が福建省?



映画冒頭に登場するムーランとその家族が住む円形の集合住居。

世界遺産にも指定されている「福建土桜」です。

中国の自然を美しく描き、その中に調和したようにたたずむ「福建土桜」の映像美は見事なものでした。

が、この「福建土桜」は文字通り、中国南部の福建省で使われたもの。


映画の元ネタになった中国のムーラン伝説は中国北部の話であり、舞台が明らかに異なります。

それこそ日本でいえば、「雪女」の話が九州や沖縄を舞台に展開しているような違和感でしょう。


さらにいえば、ムーランは4~5世紀ごろのお話

三国志が終わって晋が統一し、その晋が衰退したことで北方民族が中国の北部を占領して国を作っては滅んでいった時代に存在した北魏が舞台だといわれています。

一方で「福建土桜」が形作られるようになったのは早くても12世紀ごろといわれており、全く時代的にあっていません。

日本でいえば、聖徳太子と鎌倉時代ほどの時間差があるわけで、聖徳太子が登場する話に源平武者が走り回っている、というくらいの違和感を感じることになります。

時代考証や地理関係も無茶苦茶



その他にも、宋の時代にならないと登場しない建物が皇帝の宮殿の一部となっています。

このように時代考証がきちんとされておらず、ずさんなままであるうえ、更には地理的関係もアメリカ人にはきちんと分からないであろう、という杜撰さのまま、ストーリーを展開していきます。


今回のディズニーヴィランズであるボーリー・カーンはシルクロードにある都市を襲って西方との貿易を妨害していました。

そして他の異民族と連合して軍を大きくし、タン司令官率いるムーランの所属する軍と野戦を行います。

ボーリー・カーンはその戦場を抜け出して、少数の兵士とともに首都へ向かい、皇帝を暗殺しようとするのでした。


その決戦地は、それまでボーリー・カーンが奇襲による連戦連勝であったとしてもそこまで帝国の内部に侵攻していないと考えるのが普通でしょう。

となると、どうしても中国西方の地となります。

ひとまずここを、中国西方の土地の中で有名な敦煌近辺だとしておきましょう。


そしてムーランが舞台となった北魏の首都は洛陽

単純にグーグルマップで調べてみても、この間の距離は、というと2000キロ以上あります

ちなみに同じくグーグルマップで青森から鹿児島を調べてみると2000キロ未満という結果になりました。

どんだけの移動をしなくちゃいけないんだってことです。


さらに言えばこのころの移動手段は馬。

競走馬で有名なサラブレッドは最高速度で時速80キロ程度だそうですが、これは限られた距離を全力疾走した場合です。

他の記録を調べると24時間で284キロを走った馬が存在するとか、5000キロ弱を84日間ではしりきった、などが見つかりますが、2000キロを走るには1か月くらいは見ておかないといけないでしょう。


つまり、ムーランが魔女のシャンニャンによってボーリー・カーンの皇帝暗殺を知ってから、皇帝を守るために首都に戻るまでには4週間ほどの時間が必要となるわけです。
(ボーリー・カーンも移動に同じだけの時間を必要としているわけですが。もちろん魔女のシェンニャンも)

もちろん早馬で疾走し、時間短縮を図ることも考えられますが、これであれば十数キロごとに馬を交換しないと絶対に不可能なため、現実味が乏しいでしょう。


映画ですのでどこまでリアリティーを追求すればいいのか、のバランスはいつでも問題にはなりますが、だからといって白けてしまうような設定の甘さでもいい、というわけではありません。

特に、アメリカ人視聴者には気が付かれないであろうと思われる距離感でも、舞台となった中国人にはそのごまかしは通用しません。

あれだけ中国系の役者をそろえておいて、だれもおかしい点を指摘しなかったのか、首をかしげたくなります

欧米が思い描いている中国のステレオタイプ



中国を舞台にしたハリウッド映画、と大々的に宣伝することはいいのですが、ふたを開けてみるとハリウッドがイメージしている中国しか描かれていない、なんともお粗末なストーリーとなっていることも、問題の一つでした。

特にアメリカ人にとっては神秘的な「」についての解釈をきちんとしていないところは致命的だったと思います。

明らかにSWのフォースと一緒の「気」



中国といえば「」の概念を思い起こすアメリカ人が多いことでしょう。

実際、スターウォーズのフォースもこの「」を元ネタにしたことは有名です。

が、逆にそのため「」が戦士だけのもの、戦闘用の技術であるという誤解が広まったようにも感じます。


中国における」とは生命をつかさどるエネルギーで、人間以外のすべて者にも存在し、血液のように体中を流れていると考えられています。

そしてその気の流れに異変が起こると、体に支障が出る。
または体に支障が出ているわけは、どこかで気の流れに異変が起きているからだ、と考えるわけです。

つまり」が強いということは「より健康的で活動的」程度のこととなり、決して変身したり、空を飛んだり、相手を吹き飛ばしたりするようなことではありません。


この中国の「」の概念は主として針灸などの中国医学で用いられ、中国の医学部には針灸科があるほど、世界のどの地域よりも身近な考えとなっています。

そんな「」を漫画やSFファンタジーの世界で登場するようなお手軽魔法のように扱い、しかも生まれながらにして膨大な気の力を操ることのできるスーパーヒーローという設定を、国民的キャラクターに付け加えてしまっては、呆れかえるような反応になっても、それは当然といえるでしょう。

皇帝の宮殿を彩る女性たち



また、皇帝の宮殿を彩る女官の姿が多数、映像で見られました

基本的に女性は、それこそベルサイユ宮殿のように着飾って庭園や外をうろうろとできていたわけでありません。

後室という言葉があるほど、一般の目にはさらされないような、奥まった、特別な身分のものでないとはいることのできない場所に集められていたのです。

もちろん時代によっては必ずしもそうといえないときはあったでしょう。

かといって、外敵の侵略に対する重要な軍議をしている建物の外に、女官が散歩がてら立ち話をしているのは、明らかにおかしいですし、女性であるムーランの論功行賞の場であるからといって、女官だけしかいないようなシチュエーションで行うのもどうかと思います。

あるいはムーランのように「」の高い女官が存在するかもしれないことを期待して、あのような場を設けたのでしょうか?

そもそも中国のものではないキャラクターを登場させている



たとえ物語を監督の訴えたい主張のためとはいえ、元ネタの文化や伝統から逸脱させるのであれば、それ相応の理由が必要です。

例えば、日本の歴史上の有名な偉人が、実は女性だったとしたら、なんていうアイデアをメインにして映画が作られることはありますが、それは全くあり得ないアイデアが主題ですから、物語として楽しめます。

ところが実写版「ムーラン」に関して言えば、どうも監督はフェミニズムの問題だけを主張したくてしょうがないように感じ取りました。

そしてその主張をよりつよくするために、ムーランと対になる魔女シェンニャンというキャラクターを作り上げてしまったのです。

ところが、これは大失敗でした。

中国に存在しない魔女という概念



中国において西洋でいうような「魔女」という概念はありません

生きている女性が超自然的な力を使うことで悪さをし、悪魔となるというような考えはないのです。

そのような存在は、人間から他のものになってしまい、その時点で人間が持っているような意思はなくしてしまうと考えられているようです。

いわゆる幽霊や悪霊といったたぐいで、それらは魔女ではありません。


一方で中国には国を滅ぼしてしまうほどの悪女が存在しています。

「酒池肉林」の語源となった妲己(だっき)などがそうですが、その妲己は実はしっぽが9本あるキツネの化け物という話になっているのでした。

このようにもともと化け物が人間に化けて悪さをする、という考え方のほうが一般的であり、だからこそ、退治しても問題ない、という思考になるようです。


映画で登場するような力となるとオーバーを通り越してナンセンスですが、「」というような超自然的な能力を使える女性であれば、シャーマニズムという観点から村なり団体なりのリーダーになって仲間を導く、という方へ落ち着くのはより自然で、映画のように村八分にされて追放される、という流れは不自然を感じてしまうのでした。

鳳凰とフェニックスの混同



オリジナルアニメの中で人気のあった赤龍のムーシューが実写版では削られており、その代わりにフェニックスが登場しています。

ムーシューが削られた理由は、中国では神聖で強さの象徴である龍が、ムーシューのようにギャグキャラクターとして使われていることに反発があったから、だそうです。

そしてムーシューが、アニメ版が中国でヒットしなかったことの大きな理由の一つとされているのでした。


しかしどうもそれは真実でなさそうであることが、今回調べてみて感じ取れたのです。

国民的キャラクターである「ムーラン」は、他の国では比べ物にならないくらい中国人に親しまれており、その映像化は白黒無声映像時代から数えても映画、テレビドラマ、舞台演劇などを合わせて20回以上になるそうです。

そんなムーランを、アメリカのディズニーが作ったアニメとしていまさら見る必要もない、どうせきちんと扱っているわけがない

そういった感情のほうがヒットしなかった理由としては大きかったようです。


実写版「ムーラン」についてのレビューの中に、「ムーシューがいないのがどうも…」、というものがあるくらいで、中には龍があのようなコミカルに表現されていることを面白いと受け入れた人も、実際には存在したのでした。


で、今回、ムーシューの代わりに鳳凰をフェニックスとして登場させ、ムーランを導くように演出していますが、フェニックスと鳳凰は中国人の中でも混同させてしまう人もいるため、ある意味仕方がなかったのかもしれません。

が、フェニックスと鳳凰は全くの別物なのです。

「焼けて灰となった死骸の中から蘇る」という神話は起源はエジプトであり、フェニックスだけの特徴とされ、鳳凰にはこのような「蘇り」という能力は備わっていません。

また、監督は龍が男性を象徴、鳳凰が女性を象徴していると聞いて、そのアイデアを使ったとインタビューで答えていますが、正確には

・竜は皇帝の象徴
・鳳凰は皇后の象徴

であって、王家と全く関係のないムーランを鳳凰が守護し、導くという演出は、荒唐無稽に近い考えなのでした。

関連記事:実写版ムーランでムーシューが出ない理由とフェニックスに変えて失敗したわ

まとめ



いかがでしたでしょうか?

ここまで多くの人たちのよって伝説が語り継がれている国の中で、見ていて違和感しか感じないような作り込みしかできていない作品が、成功するわけがありません。

視聴者が多少知っている、雰囲気だけ知っている、というようなレベルであれば、それほど違和感は感じなかったでしょう。

が、今回の実写版「ムーラン」がターゲットにしたかったのは、そんなレベルでしか知識のない視聴者ではありませんでした。

まさに今でもキャラクターを含め伝説に登場する伝統的なものすべてを身近で感じているだけでなく、もはや当たり前すぎて実在したかどうかわからない、もしかすると架空のキャラクターだということすら気にならないほどの視聴者なのです。


そんな彼らを満足させなくてはいけなかった割には、作り込みがお粗末すぎます

あそこまで多くの中国人や中国系のキャストを用いて撮影しておきながら、誰一人、おかしい、と声を挙げた人がいないことに、不思議さを感じしまします。

監督、脚本、プロデュサーに誰一人として中国人や中国系アメリカ人がいないまま撮影されたのが、致命的だったのでしょう












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