ディズニーの2020年の目玉映画として前評判が高かった「実写版ムーラン」
コロナ騒動で公開日が延期となり、主演女優の香港問題における政治的な発言でも騒ぎが起きと公開前からなんともきな臭い話題を振りまいていました。
いざ公開となったものの、それは映画館ではなくディズニープラスでの配信。
そして配信されたとたんエンドロールに新疆ウイグル自治区の強制収容所があるとされる都市の名前を撮影協力として表示していることが明らかにされて、さらに大きな問題に発展しています。
もはやそれは、映画の内容がどうのこうの、というレベルを飛び越えて、ボイコットすべきだ!という声になっているくらい。
しかし、そういった問題はさておくことにして、今回は純粋に映画を見た感想だけで僕個人が
-
つまらなかった…。
と感じた理由をより深堀して考察していきたいと思います。
オリジナルアニメのしがらみ
「実写版ムーラン」の評価を調べてみますと、商業的な色のあるものほど肯定的にとらえています。
例えば雑誌の記事や映画評論家など、これからもディズニーやチャイナマネーを当てにして仕事をしていかないといけない人たちは、それらに忖度せずに感想を書くことは不可能でしょう。
しかしそういった記事を読んでいると、かなり的外れな意見ではないか、と思わずにはいられません。
その中で一番気になるのが、
-
「アニメ版からの脱却に成功した」
と評している点でした。
確かに実写版というリメイクバージョンを作り上げる場合、実写版「ライオンキング」のように全くのコピーでは作り上げる意味はないと思います。
その点からいえば、実写版「美女と野獣」、実写版「アラジン」は今の時代に合わせたキャラクター設定やストーリーに変化させ、それでいてオリジナルのテイストを損なっていないと感じました。
正直に言えば、僕個人はこの二作品はとても楽しめたし、好きな作品です。
そして「ムーラン」ですが、商業記事で実写版「ムーラン」を、ほぼ間違いなく持ち上げている「アニメ版からの脱却」という点、いったい誰がこの点に期待して映画を見たいと思っていたのでしょうか?
ディズニールネッサンスの名作は、リメイク版を作る必要がないほど完成されたものばかりです。
だからこそ、20年の時間が経った今でも、人々の記憶の中に残り続けているのでしょう。
そして「記憶に残り続ける」以上、そのストーリーや登場人物に多くの人の強い思い入れがあり、それを壊してほしくない、という思いも同様に強いものとなってしまっています。
それをいまさら、頼まれもしないのに実写版としてリメイクを作り、オリジナルとはとことん異なる「ムーラン」を出してきても、誰も
-
「ムーランという人物像を新しく変えてくれて良かった。」
とはなりませんよ。
大体、ヒット作の続編やシリーズものは、後になればなるほど、同じだけのヒットを生むことはむつかしくなります。
例えば「スターウォーズ」シリーズも最初の3部作のエピソード4~6の人気には、エピソード1~3やエピソード7~9は劣ります。
特にエピソード8でフォースやジェダイ騎士の関してそれまでの設定を変えようと試みたことが、大きな賛否の反響を引き起こしたことを考えると、それまでのファンの作品像を変えて成功させることは、とてもむつかしいといわざるを得ません。
また、こちらも大人気となった「ジュラシックパーク」シリーズとその続編の「ジュラシックワールド」シリーズにおいても、実は「ジュラシックパーク」シリーズが恐竜を主題に置いていることに対し、「ジュラシックワールド」シリーズはクローン技術を主題においています。
だからこそ、「ジュラシックワールド 炎の王国」でクローン人間というキャラが登場したのですが、僕も含めた視聴者の多くは、主題が変化したことに気が付いておらず、映画の中でクローン人間というキャラクターが邪魔にしか見えませんでした。
関連記事:ジュラシックワールド2炎の王国ネタバレ考察!クローン人間の登場理由は?
関連記事:映画ジュラシックワールド2炎の王国でクローンのメイジーが恐竜を世界に放った理由を考察
このように、他の人気シリーズの映画でも続編で主題や設定を変更させて既存のファンを満足させることがいかにむつかしいか、がはっきりしているのです。
にもかかわらず、実写版「ムーラン」では、そのことに対して事前に明らかにさせるなどの予防線を張ることもなく、視聴者がふたを開けて初めて気が付く、というやり方を取ってしまいました。
その結果、どうしたってオリジナルと比べて見てしまう視聴者には、あまりの変化に戸惑い、なぜ実写版としてリメイクしたのが、ここまで変わってしまうのか?という疑問でいっぱいになってしまったと思います。
だからこそ、つまらない、という感想を持つことになってしまったのでしょう。
主題の不明確さ
実写版「ムーラン」を見ていてとまどうのは、映画の主題の不明確さでした。
オリジナルアニメはそこは非常に明確です。
-
「ムーラン」という普通の少女が、家族を救うために女性でありながら男性社会に飛び込まざるを得なくなり、そこで男性として成功者と認められるため、どうしても足りない腕力を知力でカバーして認められ、敵をも倒すことに成功する。
というような家族愛から始まった成長物語でした。
一方で実写版ですが、ムーランは生まれながらにして特別な力を持つスーパーヒーローになってしまっています。
各家族から一人の男性を兵士として差し出せ、という命令に対して、父親の身代わりとなってムーランが出向くことに、オリジナルアニメのような悲壮感はありません。
明らかに足の悪い父親よりもムーランのほうが兵士として戦力になるし、あのスーパーパワーでは、大活躍することは目に見ていて、死んでしまうことは考えつかないからです。
あえて死の危険がある、とすれば正体がばれて女性であることが分かって処刑されるケースのみ。
そして軍に参加したムーランはわざとそのスーパーパワーを隠して役立たずのふりをします。
この理由が分かりにくい。
なぜムーランがそうしなければならないと思ったのか、説得力のある明確な説明は映画ではなかったように感じました。
そしてその力を隠さずに使うことで、他の男性が成し得ることのできない筋力テストを一人だけパスし、槍を持った組手でも男性兵士をコテンパンにしてしまいます。
が、いまだに男性としてふるまっていることで彼女のスーパーパワーは全開されておらず、魔女に負けてしまうのでした。
ここで主題は「真実の自分を見せる」ということに代わっていますが、それをするとムーランは軍から追い出され、父親が再徴兵されることになってしまうはずなのに。
大体、敵に対してムーランが男性なのか女性なのかは大した問題ではないはずで、ムーラン自身が敵に対してみせる真実の自分は、「相手を倒す」という一点でしかありません。
なぜ女性が男装しているだけで、自分自身を偽っている、となるのか。
非常に表面的な「真実」をさも重要に見せているとしか思えませんでした。
さらには、敵を倒した後のシーン。
ここでムーランは皇帝の警護兵の隊長としての職を与えられます。
が、家族のことのほうが大切だとこの職を辞し、故郷に戻るのでした。
そして父親に対し、勝手に身代わりとなって家を抜け出したことを詫びますが、父親はムーランが立てた武功よりもムーランが無事に戻ってきたことのほうを喜びます。
オリジナルアニメはここで隊長のリー・シャンが現れ、二人の間にロマンスが始まりそうなところで終わっており、家族愛のみが描かれていました。
ところが実写版「ムーラン」では父親との再会のあと、皇帝からの使者たちが現れ、武功に対する贈り物と警護兵隊長の職を再度ムーランに提供するシーンが加えられています。
このため、映画は家族愛で終わらずに、ムーランが立てた功績に対して帝国が正当に褒美を渡す、という公正な国家権力というイメージで終わってしまうのでした。
またムーラン自身がこの職を受けたかどうかは、映画の中で明確にされていませんが、最後の彼女の演出から、どうしても断ったとは思えないような終わり方をしています。
実写版ムーランでキーワードとなっていた「忠・勇・真」ですが、うがった見方をしてしまうと、中国共産党政府が国家権力に対して「忠」であることを求めることへの正当化として映画を使われたようにしか感じませんでしたし、最後のシーンで皇帝からの褒美をもって使者が現れることで、「忠義」を尽くしたものにはきちんと報いる公正な国家権力という美化のようにも感じてしまったのでした。
そして父親の身代わりになっとことで「孝」という文字も与えられた剣にはつけられていましたが、あのような使者からのセレモニーの後では取って付けた感がぬぐえません。
大体、ムーランにとっては、いくら多くの第三者や身分の高い皇帝が「父親思いの孝行娘だ」と評価したところで、それは重要でなく、父親ただ一人に「孝行娘だ」と認めてもらえればよかったはずです。
妙に国の権威を持ち出して正当に評価するという演出は、ムーランの「孝」という主題には必要ないと思いました。
とにかく、実写版「ムーラン」はストーリーが進むにつれて大切なものが、ころころと変わっていったという印象を持ちました。
そして大切なものはそれぞれに関連性がないように感じられ、結局映画が言いたい主題は何だったのか、分からず終いになっていたと思ったのです。
このことも、実写版「ムーラン」がつまらない、と感じた理由なのでした。
異なるマーケティング対象
このご時世、映画で成功しようとした場合、中国というマーケットを無視することができません。
世界第2位といわれる中国市場でヒットさせることは、映画成功に必要不可欠な条件になっているといっていいでしょう。
そのためか、最近の映画では中国に嫌われないように、と妙に忖度した演出や出演があると思います。
「ムーラン」に関しては、アニメ版は中国市場で成功しなかったという歴史があり、実写版ではその失敗を繰り返すことは、絶対に避けなければならない命題となっていました。
だからこそ、北米を中心に「ムーラン」の登場キャラクター内で人気のあった赤竜のムーシューが、中国人に受けなかった、とカットされ、代わりにフェニックスが登場したのでした。
しかし日本語で不死鳥と訳されるフェニックスと中国の鳳凰は全く別物でした。
火の中から蘇るとされるフェニックスはエジプトの神話であり、男装のムーランが魔女にやられて女性として生き返るような演出をしているところは、完全に中国の文化を理解していないと宣言している演出を言わざるを得ません。
関連記事:実写版ムーランでムーシューが出ない理由とフェニックスに変えて失敗したわけ
結局中国の視聴者になじみのあるものにしたい、中国の文化を忠実に映画に取り入れたいという思いとは裏腹に、結局欧米の価値観に準じた中国を映画の中で再現してしまっているのです。
その他にもムーランをキャプテンマーベルのようなスーパーヒーローにしてしまったのも、中国に伝わるムーラン伝承のムーラン像とは全く異なっており、ムーランは父親の代わりに参加した戦争の間、全く女性だということがばれずに10年戦い抜いた、という設定と似ても似つかないものとなってしまったことで、中国内で不評を買っています。
結局、中国の視聴者を満足させたいのか、欧米の視聴者を満足させたいのか、はっきりさせることなく、どっちつかずの設定になってしまったのが問題と言わざると得ません。
まとめ: まとめ:ディズニー映画実写版ムーランがつまらない理由
実写版「ムーラン」は欧米でも評判が悪く、中国でも評価が低いという結果になっています。
その理由は、
-
・大きく変更する必要のなかったオリジナルアニメとは全く違うムーランにしてしまったこと。
・それでいて中国に伝承されているムーランとも似ても似つかないムーランを作り上げてしまったこと。
この2点にあるでしょう。
これによってこれまでのファンから悪評を浴びることになり、新しく獲得しようと試みた中国のファンも獲得できずに終わっています。
また、中国に対しても政府をファンにしたいのか、視聴者をファンにしたいのか、どちらなのかと疑ってしまうような話になっているのも、気になりました。
一応、映画を見た感想の中には、ムーランとして見なければ面白い映画だった、という意見が多くあることも理解しています。
ですが、「ムーランとしてみなければ、」という言葉が入っている時点で、ムーランの実写版としては大失敗しているといわざるを得ません。
逆に「ムーラン」という題名が付いていない全く新しい映画だとしたら、どれほどの人が見たでしょうか?
結局のところ、オリジナルアニメ「ムーラン」の成功があってこその実写版としての話題であり、そうでなければハリウッドで作られたB級武侠映画という評価に終わっていたことでしょう。
コメント