映画1917命をかけた伝令の元ネタとなったサムメンデス監督の祖父について紹介!

映画

映画「1917 命をかけた伝令」は戦争映画には珍しい第一次世界大戦を舞台にした作品です。

映画全編をワンショットで撮影したかのような作りは、まさにすごいの一言で、戦場の緊張感、臨場感の伝わり方は、これまでに経験したことがないほどでした。

そんな素晴らしい作品を作り上げたサム・メンデス監督ですが、映画の元ネタになったのは、第一次世界大戦に従軍した彼の祖父から聞いた話であることを、公言しています

今回はそんなサム・メンデス監督の祖父がどういった人物でどのような人生を歩み、映画のストーリーに関係するようなエピソードがあったのかどうか、を紹介していきたいと思います。







サム・メンデス監督の祖父の紹介

サム・メンデス監督の祖父はアルフレッド・メンデスという人物です。

では、このアルフレッドがどのような人生を歩んできたのかを見ていくことにしましょう。

アルフレッド誕生から第一次世界大戦まで

アルフレッド・メンデスは1897年11月18日、トリニダード・トバゴ共和国に生を受けます

トリニダード・トバゴ共和国はカリブ海に浮かぶトリニダード島とトバゴ島からなる国で、イギリス連邦に属していました。

6人兄弟の長男として生まれ、父親は商売に成功し、裕福に暮らしていたのです。


故郷で勉学にいそしんだアルフレッドは15歳となった1912年に大学進学も視野に入れ、イギリスに渡ることになります。

が、大学進学の話は1914年に勃発した第一次世界大戦のために、中止せざるを得なくなり、1915年、故郷のトリニダード・トバゴ共和国に戻ることになるのでした。

故郷に戻ったアルフレッドですが、血気盛んな年ごろでもあり、両親、特に父親の反対を押し切って、新しく設立された商人部隊に参加を決めます。

この「商人部隊」とは、ヨーロッパで行われている大戦へ、イギリスの援軍として若者を兵士にして送る目的で作られた部隊であり、入隊後すぐにイギリスに渡ることになるのでした。

1916年1月、アルフレッドは19歳になっていました。

第一次世界大戦で

1916年1月に訓練を終えた兵士としてまずはフランスに渡ります。

その後、ベルギー戦線に送られ、そこで2年間戦います。

その間、活躍が認められ勲章を授与されたこともありましたし、1917年7月31日から11月10日まで続いたパッシェンデールの戦い(または第3次イーペル会戦)に参加して命拾いをしたこともありました。

そして終戦が近づいているころ、ドイツ軍の毒ガス攻撃に会い、負傷
治療のためにイギリスに送り戻されます

そして戦争終結のことを知ったのは、その最中のことでした。

戦争が終わった後

戦争が終わった後、アルフレッドは故郷のトリニダード・トバゴ共和国に戻ります。

そして父の商売を助けながら、暇に時間には詩や物語を執筆して過ごしていました

そしてほかの作家や芸術家と手紙のやり取りを通じて友達も増やしていくのです。

1933年、彼が36歳の時にニューヨークに移り住みます

そして以前より文通で交流を温めていた作家や芸術家たちのサロンに参加し、彼自身も作家としての名声を挙げていくのでした。

1934年と1935年に発表した彼の小説第1号と第2号は、現在、カリブ海地域の文学として歴史的な価値と称されるまでになっています。

その他にも60本の短編小説を発表していたのでした。


そんなアルフレッドですが、1940年に故郷に戻ります。

書くことを一切やめて、公務員や政治家として活躍し、1972年に引退生活に入ります。

サム・メンデス監督の話ではアルフレッドは70歳代になるまで、第一次世界大戦で経験したことは全く話さなかったそうした。

また、やはり戦争の影響を受け、軽度のPTDSを患っていたようで、事あるごとに頻繁に手を洗っていた、とサム・メンデス監督は記憶していたそうです。

ある時監督が祖父に頻繁に手を洗う理由を聞いたそうですが、映画「1917 命をかけた伝令」でも描写のある塹壕の記憶、いつも泥だらけで汚れていたことがPTDSとなって恐怖観念として思い出され、手を洗わずにはいられない、とのことでした。

映画「1917 命をかけた伝令」の元ネタになったエピソード

サム・メンデス監督監督の祖父、アルフレッド・メンデスは、戦争終了後、作家として生きていた時代がありました。

そんなアルフレッドは自身の伝記を執筆しており、そこの中には映画の元ネタになったのでは、と思ってしまうエピソードがいくつも見つけることができるのでした。

町に赤ん坊と残されたフランス娘の元ネタ

主人公のウイリアム・スコフィールドが廃墟と化した街でドイツ兵に追われていた際、ある建物の地下室に隠れていたフランス娘と出会うシーンがあります。

このフランス娘が映画に登場する元ネタになったのでは、と思われるアルフレッドの第一次世界大戦でのエピソードがあります。


イギリスで兵士としての訓練を終えたアルフレッドは所属部隊とともにフランスにわたります。

そして任務地であるフランス北部で過ごしていた時、ルシーナという18歳のフランス娘と知り合うのでした。

が、このルシーナという娘との関係も、アルフレッドの舞台がベルギーへ進軍することで終わりとなってしまいます。


ルシーナとの話はその後、続きがあります。

戦争が終わった30年以上も後、1950年にアルフレッドはルシーナを探してフランスを訪れたのでした。

ルシーナは2度の大戦を生き延びていました

それだけではなく、すでに結婚もして9人の子宝に恵まれていたのです。

ルシーナと彼女の夫はアルフレッドを歓迎し、アルフレッドはその晩、ルシーナの家に泊まって昔話に花を咲かせたのでした。

映画「1917 命をかけた伝令」の元ネタ

ルシーナと別れてベルギーへ移動したアルフレッドはパッションデールの戦いに参加することになるのでした。


このパッシェンデールの戦いは、

    ・ベルギーのウェスト=フランデレン州イーペル付近にあるパッシェンデールを制圧、
    ・ドイツ軍戦線に突破口を開きベルギーの海岸線まで進出、
    ・Uボートの活動拠点を占拠する

という3つの目的で行われました。

これだけの突破作戦が成功すれば、戦線の要である位置に決定的な通廊が穿たれることになり、それによってフランス軍への圧迫も除去されると期待されていたのです。


ところが、戦場となった地域の大部分は元は沼沢地で、雨が無くともぬかるんでいるような地形でした。

しかもイギリス軍によるとても大規模な準備砲撃によってこの脆弱な地表を引き裂いてしまい、8月以降の大雨と相俟って当時発明されたばかりの戦車ですら通行不能な底無し沼を至る所に作り出してしまったのです。

そのため、連合国側は無数の兵士を溺死させる結果になってしまったのでした。


これに対しドイツ軍は良好に整備された塹壕と、連合国軍の準備砲撃にもよく耐える相互に連携したトーチカ群に拠って防衛戦を遂行しました。

が、3か月近くに及ぶ戦いの末、何とかパッシェンデールは連合国軍側のカナダ軍によって占拠することができました。

作戦的に勝利したはずの連合国軍の損害は約45万人に及んでしまい、一方、ドイツ側の損害は26万人だったため、損害で見ると連合国側のほうが甚大です。

そのため資料によっては引き分け、としているものもあるのでした。


そんな戦いの中で、アルフレッドが所属する舞台は10月12日、行軍中に待ち伏せていたドイツ軍に攻撃を受けます。

484名いた兵士のうち158名が死傷し、生き残った兵士も身を隠せる、砲弾が作った穴の中に身を伏せて攻撃をやり過ごす以外ありませんでした。


翌日、部隊長が近くにいる友軍に援軍を求めるための伝令役を募ります。

アルフレッドはこの任務に志願し、一人どこにいるかはっきりわからない友軍目指して戦場を進むのでした

163センチメートルという小柄な体形と、霧が立ち込めるという気象条件も味方し、ドイツ軍スナイパーや機関銃の餌食にいつなってもおかしくなかったところ、無事友軍を発見し、舞台の危機を救ったのです。

しかも友軍を発見する前にドイツ兵士数人と遭遇したのですが、彼らはアルフレッドに降伏を申し出、一人は武器をアルフレッドに渡すほどだったとか。

この功績が認められ、アルフレッドには勲章が授与されたのでした。


このエピソードなど、詳細は異なりますが、映画「1917 命をかけた伝令」のまさに元ネタになったようなエピソードです。

サム・メンデス監督は、もしかするとこのエピソードから話を膨らまして映画を考えたのかもしれません。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

サム・メンデス監督が映画「1917 命をかけた伝令」を作り上げたのは祖父から聞いた話が元ネタである、と語っていましたが、どれだけ祖父アルフレッドが体験した戦争中のエピソードが影響を与えたかが、伺い知れたと思います

また、映画で登場した、任務の途中で戦死してしまう戦友トム・ブレイクを連想させるようなエピソードは、見つけることができませんでしたが、おそらく、多くの戦友を失っていると思いますので、監督がインスピレーションを感じたような話が、伝えられた可能性はあったのではないでしょうか。











コメント

  1. かんう より:

    とても参考になりました。ただ幸福は降伏ではないでしょうか?

タイトルとURLをコピーしました