映画「グリーンブック」
第91回アカデミー賞の最優秀作品賞や最優秀助演男優賞などを受賞し、最優秀主演男優賞にもノミネートされていた作品です。
その評判通り、映画の中身はいろいろと考えさせられる内容になっていました。
ただ、取り扱った内容が重いものの、そこまで暗く、ともすれば絶望的にまでなってしまいかねませんが、多くのユーモアを折り交え、主演のビゴ・モーテンセンと助演のマハーシャラ・アリの見事な掛け合いで、楽しい映画に仕上がっています。
予告動画はこちら
簡単なあらすじとキャストの紹介
人種差別が色濃く残る1960年代のアメリカ南部を舞台に、黒人ジャズピアニストとイタリア系白人運転手の2人が旅を続けるなかで友情を深めていく姿を、実話をもとに描き、第91回アカデミー作品賞を受賞したドラマ。
1962年、ニューヨークの高級クラブで用心棒として働くトニー・リップは、粗野で無教養だが口が達者で、何かと周囲から頼りにされていた。
クラブが改装のため閉鎖になり、しばらくの間、無職になってしまったトニーは、南部でコンサートツアーを計画する黒人ジャズピアニストのドクター・シャーリーに運転手として雇われる。
黒人差別が色濃い南部へ、あえてツアーにでかけようとするドクター・シャーリーと、黒人用旅行ガイド「グリーンブック」を頼りに、その旅に同行することになったトニー。
出自も性格も全く異なる2人は、当初は衝突を繰り返すものの、次第に友情を築いていく。
トニー役に「イースタン・プロミス」のビゴ・モーテンセン、ドクター・シャーリー役に「ムーンライト」のマハーシャラ・アリ。
トニー・リップ(本名トニー・バレロンガ)の実の息子であるニック・バレロンガが製作・脚本を手がけ、父とドクター・シャーリーの友情の物語を映画化した。
監督は、「メリーに首ったけ」などコメディ映画を得意としてきたファレリー兄弟の兄ピーター・ファレリー。
アカデミー賞では全5部門でノミネートされ、作品賞のほか脚本賞、助演男優賞を受賞した。
トニー・”リップ”・バレロンガ: ビゴ・モーテンセン
ドクター・ドナルド・シャーリー: マハーシャラ・アリ
ドロリス・バレロンガ: リンダ・カーデリニ
オレグ: ディミテル・D・マリノフ
ジョージ: マイク・ハットン
引用「映画ドットコム」
ネタバレ感想 1 1962年に黒人がアメリカ南部へ旅行した理由
映画を見る前に少し内容の説明を知ったのですが、正直、とても驚いてしまいました。
「1962年に黒人がアメリカ南部へ旅行に行く」
ほとんど自殺行為で無事に帰ってこれるのか、と思ったのです。
というのも1960年代のアメリカなんて黒人差別で大揉めに揉めていた時代じゃないですか。
この時代の黒人差別問題は映画の題材にもたくさんなっています
宇宙開発戦争をソビエトと繰り広げていたNASA内で裏方として活躍した黒人女性の話である「ドリーム」
1967年にデトロイトで起こった12番街暴動とアルジェ・モーテル事件を映画化した「デトロイト」
などなど。
そんな1960年代よりも100年以上も前の1830年代を舞台にした黒人差別の元になっている黒人奴隷についての映画「それでも夜は明ける」をみれば、その時代、北部の黒人を誘拐して南部に連れていき、奴隷として売り払われることが頻繁に起こっていたのは歴史の事実です。
そんな黒人差別の中心地とも言うべき南部。
1960年代だって、黒人の不当な扱いは、法律で決められているくらいですし、街を歩いていて因縁をつけられ、殺されたって不当にもみ消される可能性がとても高いような土地柄です。
そんなところへなぜわざわざ黒人が旅行に行くというのか、逆に興味がわきました。
ドクター・シャーリーはその時代、セレブとも言うべき音楽家で上流階級や有力政治家ともコネクションがある人物。
そんな彼が、わざわざ南部へコンサート旅行をするのは、黒人の地位を上げるため、という大きな目標があったためでした。
これはとても勇気のいる行為で、下手をすれば白人至上主義者によってステージ上で半殺しにあう可能性もあったそうです。
白人が伝統的にやってきた競技とか芸術分野で黒人などの他の人種がチャレンジしようとすると、不当に足を引っ張られることは珍しくありません。
例えば、クラシックバレエで黒人のダンサーは?と言われてぱっと思い出せないません。フィギィアスケートでも黒人選手の顔をすぐに思い浮かべられず、テニス選手でも最近はセリーナ・ウィリアムズが有名ですが、やはり、白人選手のほうが多い印象です。
この問題についてドクター・シャーリーが映画の中で喝破していました。
「白人は私がステージの上にいるときは対等な人間として振る舞うが、ステージを降りれば他の黒人と同じように扱う。他の黒人は私のことを黒人として認めようとしない。自分は白人でもなく黒人でもない。一体自分は何者なんだ!」と。
黒人の地位を上げるため、白人のものと思われている世界で成功する。
そんな夢を若いときに思い描いていた時期があったのでしょう。
しかし、現実はそう簡単ではなく、客寄せの動物と何ら変わりがない扱いを受けていることに気が付かされます。
それでも、白人がステージの上にいるときだけでも彼の才能に対して敬意を払うのはまだましの方だと、ボクは思いました。
それよりもなんとかしないといけない、と非常に大きな壁に感じたのは他の黒人がドクター・シャーリーに向ける目でした。
きっちりとした上流階級の身だしなみ、白人をドライバーに雇っている立場、そんなドクター・シャーリーを見る、黒人たちの目が「白人のものまねして、何だ、偉そうに。」としか言っていないように見えてしまうのです。
ともするとそれは、黒人たち自体が、我々が存在すべき場所はここ、と勝手に決めてしまい、そこから抜け出して高みを臨もうとする黒人を裏切り者扱いして、引きずり降ろそうしているかのように感じました。
いくらドクター・シャーリーが成功しても黒人がその成功に喜び、称賛し、できれば自分も続きたい、という意欲に直結せず、彼は変わり者だから、と自分たちのグループからはじき出してしまう。そんな印象を受けたのです。
とはいえ、おそらくは映画に登場したドクター・シャーリー以外の黒人は、その日暮らしがやっとの生活を送っていて、ドクター・シャーリーのように高い教養を身につける教育を受けるだけの余裕もないでしょう。
ただ、何もドクター・シャーリーの世界まで到達しないといけないわけではないと思うのです。
ドクター・シャーリーのように頑張れば彼が辿り着いた地位まで行けるでしょう。
しかしその頑張りは人それぞれだから、たとえ頂点にたどり着けなくても、常に向上しようという努力が、諦めて自分たちの存在価値だと勝手に決めている底辺から抜け出せる唯一の方法なのです。
ドクター・シャーリー一人では、「ドクターだからできた」という反応で終わってしまいます。
ドクターの活躍を見て、それに続く人が一人、また一人と出てきてくれれば、そのうち「私にもできるかも」という考えが生まれるのでしょう。
そういったきっかけになるための命をかけた旅行だった。
それが黒人であるドクター・シャーリーが南部へコンサート旅行に行った理由だと思いました。
ネタバレ感想 2 映画の話は実話?どこまで本当?
「実話を元にした映画」ということでグリーンブックは進みますが、ではどこまで本当に真実なんでしょうか?
トニーとのコンサート旅行
ドクター・シャーリーとトニーが一緒にコンサート旅行を行ったことは本当です。
映画では8週間となっていますが、2ヶ月の約束で始まった旅行が、実際は1年にも及ぶものになってしまったそうです。
トニーと牢屋に入れられた?
運転中、警察に止められた末、トニーが警官を殴って牢屋に入れられた事件は、本当に起こったことでした。
しかし、これは1963年の秋に起こった出来事で、1962年のクリスマス前のツアーではありません。
ドクター・シャーリーはこのとき、本当に当時の大統領JFケネディの弟で司法長官であったロバート・ケネディに電話して牢屋から出ることができたのでした。
ちなみにこの出来事はJFケネディが暗殺される数日前の出来事だそうです。
ドクター・シャーリーの音楽経歴
ドクター・シャーリーは音楽の才能は天才的で、ピアノは2歳からはじめました。
8歳でN・A・リムスキー=コルサコフ記念サンクトペテルブルク国立音楽院に招かれて学び、またアメリカ・カソリック大学でも音楽の勉強をしていました。
18歳でアメリカの名門オーケストラの一つ、ボストン・ポップス・オーケストラとチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏し、翌年にはロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と一緒に演奏をしています。
ただし映画では触れられていませんが、20代前半のとき、黒人音楽家がクラシックの世界でやっていけるわけがない、と音楽を諦めた時期がありました。
その間、シカゴ大学で心理学を学んでいたそうです。
もちろんその後、再び音楽の世界に戻ってきて1955年にファースト・アルバムを出し、1960年台には映画のとおり、コンサート旅行でアメリカやヨーロッパなどを旅したそうです。
子どもたちの年齢
映画の中ではトニーの子どもたちがそれなりの年齢として出演しており、部屋の中を走り回っていました。
が、実際には1962年には、二人はもっと年齢が幼かったそうです。
脚本を担当したニック・バレロンガの生年月日が1959年9月13日。
映画の舞台となった1962年のクリスマス前では3歳になったばかりです。
ニックが弟だったとしても、映画の中では少なくとも5~6歳くらいの少年に見えますよね。
これは、子役を映画に出演させる際に、労働時間がきっちり決まっているため、子役俳優をできるだけ長く撮影に拘束できるようにと取られた処置だそうです。、
ピザの食べ方
トニーがピザを食べるシーンがありましたが、息子のニック・バレロンガの話では、トニーは映画のように、直径30センチもある切っていないピザをまるごと、映画のようにしてかじりついて食べていたそうです。
ネタバレ感想 3 その後の二人の関係
二人はその後も友人として長い付き合いをしていました。
この映画「グリーンブック」の制作と脚本を担当したニック・バレロンガもドクター・シャーリーは家族ぐるみで付き合っていた友人だと証言しています。
しかしまだ在命のドクター・シャーリーの弟が、「兄はトニーを友人だと思ったことはなく、ただのお抱え運転手件ボディーガードだ。」と話しました。
そのことで、映画の話は実はトニー側の家族親類に話が行っていて、ドクター・シャーリーの遺族より正式な連絡がされておらず、制作の許可をもらっていなかったことがわかってしまったのでした。
しかし近年、ドクター・シャーリーが亡くなる前のインタビューを録音した会話が発見されており、そこで、ドクター・シャーリー本人よりトニーは友人であるということが明言されていたのです。
実際、狭い車の中で二人切りとなり、長い時間を一緒に過ごすのですから、気が合わないとやっていられないと思います。
また、実際には、ドクター・シャーリーがヨーロッパで1年にも及ぶコンサート旅行をする計画が持ち上がったとき、トニーにドライバー兼ボディーガードを依頼したそうです。
このときは、トニーがそれだけの長期間、家族と離ればなれになることを嫌ったために一緒の旅行にはなりませんでした。
そこまでドクター・シャーリーがトニーのことを信頼していて、息子のニックが家族ぐるみの付き合いをしていたと言うほど、ドクター・シャーリーのことを覚えている以上、二人が友人関係でなかったとするほうが、説得力に欠けると思います。
トニーとドクター・シャーリーはともに2013年に亡くなっています。
トニーが1月、ドクター・シャーリーが4月という近さでした。
まとめ
アメリカにおける黒人差別は未だに大きな問題で、だからこそ、このような作品がアカデミー賞を受賞するのでしょう。
ただ、今回の「グリーンブック」では、通常であれば上流階級が白人、貧困階級が黒人というステレオタイプをまるっきり裏切って、物静かで上品な黒人が、イタリア系の粗野で騒がしい白人とコンビを組んで、というところに新鮮味がありました。
黒人差別、と言いましたが、実は白人の中でも差別というか、ステレオタイプが存在します。
特にトニーの様はイタリア系というと、まっさきに想像されるのが、マフィア。続いてこそドロ、といいイメージはありません。
同じようにアイルランド系だと警察官、というふうに、どこ出身だとどのコミュニティといった階級のようなものが存在するように思います。
そういった個人を縛るレッテルのようなものは無いほうがいいと僕自身は思うのですが、自分らしく自由に生きようと、世間一般のステレオタイプの枠から飛び出てしまうとドクター・シャーリーのように、どこにも所属することができずに孤独な日々を過ごさないといけなくなるということのほうが問題のように感じました。
関連記事: 映画グリーンブックの撮影秘話とトリビア紹介!ビゴ・モーテンセンは何kg太った?
コメント