アニメ「ダンジョン飯」でイヅツミの体から実体化した魔物は、エピソードの題名から山姥であることがわかります。
しかし映像を見ていると、山姥というよりは鬼婆、もしくはお面で有名な般若のような外見をしていると感じた人も多かったのではないでしょうか。
そこで疑問として湧いてくるのは、山姥と鬼婆、般若の間にはどういった違いがあるのか、といういうものです。
その疑問が湧いてくると、山姥、鬼婆、般若の名前の由来も気になるのではないでしょうか?
今回は、山姥、鬼婆、般若の違いについて、紹介していきたいと思います。
アニメダンジョン飯の山姥
アニメ「ダンジョン飯」で登場した山姥は、イヅツミの体にかけられた魔法の産物として実体化しました。
これをかけたのはマイヅルで、勝手な行動を取りがちなイヅツミを、パーティーの仲間として行動をともにするために、一定の時間ごとに処理をしないと、山姥が実体化し、イヅツミを襲うようにしていたのです。
実体化して襲う魔物として山姥が選ばれたのは、いうなればマイヅルの趣味といったところでしょうか。
ただし、この魔物が山姥であることは、マイヅルがそのように決めたから、と言えると思います。
そうでなければ、この魔物が山姥であるのか、鬼婆であるのか、般若であるのかは、判別が難しいでしょう。
はたして、山姥、鬼婆、般若の明確な違いはどこにあるのでしょうか?
山姥は鬼婆や般若と違いがあるのかを解説
山姥についての詳しい背景と語り継がれてこられた民話のお話は、関連記事において詳細に紹介しておりますので、そちらを参考にしてください。
関連記事:イヅツミから実体化した山姥の元ネタ解説
簡単に紹介すると、山姥は山という存在が、人間に対してどういった振る舞いをするかを具体化した結果だと言えます。
はじめは神として、その後、時代が進むにつれて、妖怪として考えられてきました。
このように山姥は山に住む妖怪であり、素は神として考えられて事もあって、変化の術など、魔法とも呼べる多くの能力を有するとされています。
鬼婆とは
鬼婆ですが、山姥とは違い、山との関連はありません。
人里離れた場所に住んでいるため、山深いような場所に住んでいる場合がありますが。
鬼婆は、もともと人間の女性であったが、怨念によって鬼とかした存在、とされています。
その中でも老婆姿の鬼を鬼婆と呼び、若い女性の鬼は鬼女とよんで区別していたようです。
鬼婆の中で一番有名なものは、今の福島県安達太良山付近に伝わる「安達ヶ原の鬼婆」の話でしょう。
その内容はというと、
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神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・東光坊祐慶(とうこうぼう ゆうけい)が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、一軒の岩屋に宿を求めた。岩屋には一人の老婆が住んでいた。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、薪が足りなくなったのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言いつけて岩屋から出て行った。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。驚愕した祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出した。
しばらくして岩屋に戻って来た老婆は、祐慶の逃走に気付くと、恐ろしい鬼婆の姿となって猛烈な速さで追いかけて来た。祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えた。すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めた。
鬼婆は命を失ったものの、観音像の導きにより成仏した。祐慶は阿武隈川のほとりに塚を造って鬼婆を葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。鬼婆を得脱に導いた観音像は「白真弓観音」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けたという
(出典:ウィキペディア)
というものです。
そして「安達ヶ原の鬼婆」が誕生した由来とされる伝説は、
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その昔、岩手という女性が京の都の公家屋敷に乳母として奉公していた。だが、彼女の可愛がる姫は生まれながらにして不治の病におかされており、5歳になっても口がきけないほどだった。
姫を溺愛する岩手は何とかして姫を救いたいと考え、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気に効くという易者の言葉を信じ、生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。
奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を宿とし、標的の妊婦を待った。長い年月が経ったある日、若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。女の方は身重である。ちょうど女が産気づき、夫は薬を買いに出かけた。絶好の機会である。
岩手は出刃包丁を取り出して女に襲い掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を抜き取った。だが女が身に着けているお守りを目にし、岩手は驚いた。それは自分が京を発つ際、娘に残したものだった。今しがた自分が殺した女は、他ならぬ我が子だったのである。
あまりの出来事に岩手は精神に異常を来たし、以来、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果てたのだという。
(出典:ウィキペディア)
というもの。
あまりに哀れで救いの無い理由で鬼婆となってしまったことに、救われない気持ちになってしまいます。
最終的に仏によって救われたのが、何よりもなぐさめと言えるでしょう。
般若とは
般若の面といえば、口の上下からキバが2本ずつ、額からツノが2本生やした女の鬼。
目を見開いて眉間にシワを寄せた嫉妬や恨みのこもる表情で見る者すべてに恐怖を抱かせる存在です。
一方で「般若」とは、「仏の智慧」という意味であり、鬼を表す言葉ではありません。
ちなみに「智慧」とは「知恵」とは違い、世の中の真理を知ることを指す言葉で、時代によって変化しない普遍的なものとされています。
一方で「知恵」のほうは、頭が良い、賢い、優れているといった意味を持ち、時代とともに内容や対象が変化するとされています。
では、この「般若」がなぜ女の鬼の面の名前に使われるようになったのでしょうか?
それにはいくつか説が存在します。
まずは、有名な能面師の名前が由来とする説。
その昔、大変優秀な能面師がいたそうです。
しかし、あるとき自分の能力に限界を感じて創作活動が行き詰ってしまいました。
どんなに時間をかけても納得のいく能面が作れず、スランプに陥ります。
そんなとき、仏の力を借りて今まで以上に素晴らしい能面を作りたいと願い、自分の名前を仏の智慧を意味する「般若」に改名しました。
改名後、般若坊の作る能面は傑作ばかりと有名になり、その中でも鬼女の面は特に優れていると評判になったそうです。
この逸話から、般若=鬼女の面というイメージが定着し、鬼女の面を「般若」と呼ぶようになったという説です。
続いては、面を使う伝統芸能の「能」に由来するという説。
能に使われる鬼女の顔を表した面はすべて同じではありません。
色によって白・黒・赤に分かれ、品格や強さが違うのでした。
白は上品さ、黒は下品さ、赤は強い怒りを表します。
さらに、究極の怒りを表した「真蛇(しんじゃ)」と呼ばれる能面もあり、赤よりもさらに恐ろしい蛇を思わせる表情で、頬まで避けた口や耳がないのが特徴です。
能において、さまざまな演目の中で、鬼の面を着けた恨みに執心している怨霊は改心したり悟ったりしていきます。
その姿から、鬼女の面を仏の智慧である般若と呼ぶようになった、とされたのでした。
また同じく能に関する由来の一説。
源氏物語を題材にした演目「野宮」では、嫉妬や恨みから鬼の形相の生霊になってしまった六条御息所が祈祷によって退散する場面が描かれています。
このときの祈祷が般若心経であったことから「怨霊や生霊を表す鬼女の面=般若」のイメージが定着したとされる説もあるのでした。
まとめ
アニメ「ダンジョン飯」に登場した山姥は、もともと山に関係した妖怪でした。
山の性質を持っており、人に対して無慈悲に命を奪う山という自然の厳しさが、山姥の残忍さとなったとされています。
山姥と混同されやすい鬼婆は、もともと人間の女性であったが、怨念によって鬼とかした存在、とされています
ですので、山姥とは異なる存在であり、山とは全く関連性はありません。
その残忍さも鬼からきています。
「般若」は鬼女の面の名前として有名ですが、本当は「仏の智慧」という仏教用語。
鬼女とは全く関係のない言葉でした。
そんな「般若」が鬼の面の名前として認識されるようになった説はいくつかあります。
一つは般若という名前の能面師が鬼の面を得意としていたことから。
他には能の演目において、色んな種類の鬼が最終的に改心することから、「仏の智慧」に気がつく結末を迎えることができたという意味で「般若」と関連付けられたとする説もあります。
さらには、同じく能の演目である源氏物語を題材にした作品で、鬼と化した女性を般若心経で撃退したことから、鬼の面と般若心経が結びついたことで、とする説もあるそうです。
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