アニメ「ダンジョン飯」でライオスたちの前に現れたイヅツミ。
シュローのパーティーを足抜けし、黒魔術を操るマルシルの力を使って、彼女にかけられている呪いを解こうと企むのでした。
が、イヅツミの自己中心的な性格を見抜いていたマイヅルは、彼女を監視する目的で、魔法をかけていました。
それは、マイヅルが一定の期間内に処置しないと、イヅツミから山姥が現れ、彼女に危害を加えようとするものでした。
ちなみにイヅツミから現れたのは、山姥というタイトルが付いているから山姥であるとわかるのですが、その容姿は鬼婆、もしくは般若のようにも見受けられます。
山姥、鬼婆、般若の違いについての解説もこちらの記事で詳しく説明していますので、ご興味ある方はご覧ください。
今回はイヅツミから実体化した山姥の元ネタ解説をしていきたいと思います。
アニメダンジョン飯のイヅツミから実体化した山姥の元ネタ解説
アニメ「ダンジョン飯」でイヅツミの体から実体化した山姥ですが、これはイヅツミが勝手な行動をしないように、マイヅルによってかけられた魔法の結果でした。
マイヅルは日本を思わせる、「ダンジョン飯」の世界では東方諸島と呼ばれる地方の出身です。
そのため、彼女が使う魔法も服装や出立まで、日本を連想する物となっているのでした。
ですので、彼女が使った監視の魔法でも、山姥という妖怪がイヅツミに罰を与えようと攻撃してきます。
この山姥の元ネタですが、調べてみるとやはり名前に「山」がつくだけあり、「山に住む妖怪で人間を取って喰う」という恐ろしいものであることがわかりました。
が、更に調べてみると、ただの妖怪ではない、慈悲深い面もある2面性を持った存在であることがわかったのです。
山姥は妖怪?
山姥に関する伝説で一番有名なのは、旅の者に一晩の宿を貸す優しい老女が、夜になると鬼のような恐ろしい姿になって、旅人を殺し、その血肉を喰らう、というタイプの話でしょう。
そういった人を襲う妖怪としての山姥の伝承話として、
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・牛方と山姥
・食わず女房
・天道さんの金の鎖
・三枚のお札
といったお話が有名でしょう。
僕も子供の頃に「食わず女房」、「三枚のお札」の絵本が家にあり、よく読んでいた記憶があります。
このタイプの山姥は、山に住む妖怪で、人間が何らかの理由で接触した際、その人間を取って食ってしまおうとするのでした。
が、話の顛末としては、被害者となるべき人間の反撃され、退治されてしまうというオチになっています。
山姥の元ネタは山の神に仕える巫女?
こういった山に住む妖怪としての山姥は、その元ネタを辿ると、山に住まざるをえなくなった人々が、人間社会から隔離されることで、異質なものとして認識され、蔑まれた結果生まれた、と考えるの一般的のようです。
飢饉の際に口減らしとして、山に捨てられた老人。
犯罪などを犯し、村社会で生きていけなくなって逃亡した犯罪者。
そういった山に住む山人によって拐われた人々。
そういった訳ありの人間が集団で山の中で暮らし、時には生きるために麓の村に盗みに入ったり、旅人を襲ったりしたことで、妖怪として考えられるようになった、というわけです。
また、山という存在そのものを神といて崇め、そこからの恩恵を受けやすくし、さらに災難を減らしてもらうことを目的として、山の神に巫女を娶らせるという理由で、捧げられた女性もいた事がわかっています
こうして山の神に嫁いだ巫女は、神の力により、特殊な力を得ると考えられており、その後、妖怪と変化すると考えられていたようです。
ただしこの場合の妖怪には、人々に災いを振りまく存在というより、神未満人間以上という超神秘的な存在という認識でした。
そういった存在になってしまったがゆえに、人間が考える善悪を超越した思考を持つため、時には人に襲いかかる、人に危害を加えてしまうという面もあったようです。
そのうち、人に危害を加える面がフォーカスされていくこととなり、人間を襲う妖怪として認知されていったのでした。
山の神そのものと思える山姥も
ところが山姥と言っても、た人間を食料としかみなさない凶悪な山姥ではなく、その反対に人間に恩恵を与える福の神とも言うべき山姥も存在します。
そんな山姥の代表的な伝承話は、
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・ちょうふく山のやまんば
・糠福と米福
でしょう。
「ちょうふく山のやまんば」のあらすじは、
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ちょうふく山に住む山んばが子どもを産んだから、ふもとに住む村人に祝いの餅をもって来いといいつけた。
村人は餅をついたものの、誰も怖がって持っていこうとしない。村人が話し合って、村一番の乱暴者のカモ安と権六に頼もうということになったが、二人も山んばが怖くて、道を知らないから行けないとごねた。そこで、村一番の年寄りの杉山の大ばんばが道案内役としてついていくことになった。
山を登っていく途中で山んばの声が聞こえると、カモ安と権六は大ばんばと餅を置いて逃げていってしまった。大ばんばはしかたなく餅をその場において、頂上まで行き、山んばの家を訪ねて、事情を話した。すると昨日産まれたばかりのまるという子どもがひとっ飛びで餅を担いで帰ってきた。
その後大ばんばは山んばに引き留められて二十一日間山んばの世話をして、そのお礼にと錦の反物を貰って帰った。村に戻ると自分が死んだものと思われていてちょうど葬式をしているところだった。大ばんばは事情を話して、山んばからもらった錦をみんなにも分けてあげたが、不思議なことにこの反物はいくら使ってもなくなることがなかった。
(出典:まんが日本昔ばなし)
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というもの。
山姥を恐れる部分は、山そのものを恐れることの表れで、使っても無くならない反物は、毎年取れる山の幸のことを表しているのではないか、と感じてしまいます。
山に対し恐れつつもきちんと敬意を払うことで、山が授けてくれる恩恵を受け取ることができる、というお話だと思いました。
もう一つの「糠福と米福」という話は、日本版シンデレラと言っても過言ではないストーリーです。
シンデレラに魔法をかける魔女が山姥になっており、王子の代わりに村長の息子、ガラスの靴の代わりに足袋や草履に変わっています。
そして日本らしく、本物を見分ける最後のシーンで履物だけではなく、短歌勝負をしている点が異なっているのでした。
この昔ばなしから、山姥は西洋における魔女である、とする考えも生まれているとのことです。
凶暴さと優しさを持つ理由
妖怪として有名な山姥ですが、その反面、人間に恩恵を与える山姥も存在するのはなぜなのでしょうか?
同じ山姥という超自然的な存在で、全く相反する性質を持ち合わせている理由は?
それは山姥が山の存在、そのものだと考えられているかでしょう。
山という存在は、多くの恵みを人間に与えることができます。
というより、山の恵みを人間が感受することが可能であると言ったほうがいいでしょう。
動物を狩ることもできますし、山菜や樹の実などの食料も採取できます。
川が流れていれば魚が取れ、水にも困りません。
一方で、山という自然の前では人間はとてもちっぽけな存在で、あった異馬に命を落としてしまう危険性があります。
地すべりや鉄砲水などの天災もそうですし、道迷いによる遭難、冬には凍死などの危険性もあります。
そういった、人間に対して一切慈悲を与えることなく、命を奪ってしまうのも山の一面として存在するのでした。
ここまで来ると、山姥は山に住む人間が妖怪化したというより、山そのものを擬人化した存在、と考えたほうが正しいと思えてきます。
まとめ
山姥は今でこそ、人を取って喰う鬼女の妖怪である、と考えられています。
しかし色々と伝承を調べてみると、もともとは山という、人間にとってたくさんの恩恵を受けられる反面、場合によってはいとも簡単に命を奪われしまう存在が擬人したと考えたほうが、納得のいく話がいくつもありました。
さらには、時代が進むに連れ、山に住む、得体のしれない人々との接触が増えることで、自分たちの価値観から逸脱した人々として恐れるあまり、妖怪化させてしまったのでしょう。
そういった経験が、人のことを食料としてしか見ていないような妖怪としての山姥を生み出し、語り継がれていったのでした。
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