映画「リスペクト」は「クイーン・オブ・ソウル(ソウルの女王)」と呼ばれる大スターのソウル歌手アレサ・フランクリンの伝記映画です。
1960年中ごろから活躍した彼女のヒット曲は今でもどこかで聞いたことのあるという位の有名な物ばかり。
もちろんそんな名曲も作品の中で登場します。
今回はこの映画「リスペクト」の基本情報や予告動画や登場人物情報、そして映画のあらすじを分かりやすく紹介していきます。
映画「リスペクト」の基本情報
それでは映画「リスペクト」の詳細あらすじを紹介する前に、映画の基本情報と予告動画、そして登場人物の紹介をしておきます。
映画「リスペクト」の基本情報と予告動画
「ドリームガールズ」でアカデミー助演女優賞受賞し、歌手としても第51回グラミー賞を受賞したジェニファー・ハドソンが、ソウルの女王アレサ・フランクリンの半生を演じた伝記ドラマ。
少女の頃から、その抜群の歌唱力で天才と称されたアレサは、ショービズ界でスターとしての成功を収めた。しかし、彼女の成功の裏には、尊敬する父、愛する夫からの束縛や裏切りがあった。
すべてを捨て、彼女自身の力で生きていく覚悟を決めたアレサの魂の叫びを込めた圧倒的な歌声が、世界中を歓喜と興奮で包み込んでいく。
アレサ本人から生前に指名されたハドソンがアレサ役を演じるほか、フォレスト・ウィテカー、マーロン・ウェイアンズ、メアリー・J・ブライジらが顔をそろえる。引用:映画ドットコム
映画「リスペクト」の登場人物紹介
続いて登場人物紹介です。
アレサ・フランクリン
「クイーン・オブ・ソウル(ソウルの女王)」と呼ばれるソウル歌手。
大成功の陰に多くの問題を抱えていたが、それらを乗り越えてきた。
演じるのはジェニファー・ハドソン。
C・L・フランクリン
アレサの父親。
バプティスト派の牧師で高名な説教者。
家族を含め、他人をコントロールしたがる傾向にある。
演じるのはフォレスト・ウィテカー。
テッド・ホワイト
アレサが初めて結婚した夫。
シンガーソングライターで、プロデュサー。
アレサのマネージャーも務めたが、成功するにつれ、問題が表面化しだした。
演じるのはマーロン・ウェイアンズ。
バーバラ・シガーズ・フランクリン
アレサの母親。
父親とは別居していたが、アレサとは頻繁に会っている。
彼女が10歳の時、心臓発作で亡くなってしまう。
演じるのはオードラ・マクドナルド。
映画「リスペクト」の見どころ紹介
映画「リスペクト」の見どころは、2点あると思います。
まずは、アメリカのエンターテイメント業界で大成功して、世界的に「クイーン・オブ・ソウル(ソウルの女王)」と認知されているアレサ・フランクリンが、成功するまでに乗り越えなくてはならなかった諸問題。
彼女が抱えた問題は、成功すればするほど、大きなものとなっていってしまいました。
続いては、成功してからも悩まされることになった問題。
視聴していて、解決したと思われた第一の問題が、この第2の問題の根底になっていることに気が付きました。
が、映画としては、アレサ自身がきちんと向き合うことで、無事にこれらの問題を乗り越え、さらに高みに登ったことがわかるハッピーエンディングが待っていたのです。
映画「リスペクト」ネタバレあらすじを分かりやすく解説
それでは映画「リスペクト」のネタバレ有のあらすじを分かりやすくお届けします。
起・アレサの子供時代・母との別れと聖歌隊への参加
1952年、10歳になったアレサ・フランクリンはバプティスト派教会の牧師で高名な説教師であった父C・L・フランクリンと一緒に、ミシンガン州のデトロイトで姉と妹と祖母と暮らしていました。
地域で有名人であった父は、頻繁に自宅でパーティーを開き、その席でアレサに歌を歌わせることで、彼女の美声を友人たちに披露していたのです。
歌好きのアレサは、嫌がることなく、多くの招待客の前でうたをひろうしていました。
母親のバーバラは離婚はしていないものの、夫のC・Lとは一緒に暮らしておらず、アレサ姉妹は定期的にバーバラの家で暮らしたりして、母親との絆を保っていたのです。
シンガーソングライターでステージに上がってパフォーマンスをしていたバーバラはアレサにとって憧れの存在でもありました。
しかしバーバラは34歳という若さで、心臓発作が原因で、いきなりなくなってしまいます。
それはアレサの誕生日の3週間前であり、そのショックにアレサは話ができなくなってしまうほどでした。
そんなアレサに対し、父C・Lは教会で賛美歌を歌うことを強要します。
それをもってアレサの話せなくなってしまったという精神的ダメージを無理やり治療したのでした。
10代となった1959年、アレサにはすでに二人の男の子がいました。
彼らの面倒を祖母に任せ、父と一緒にアメリカ中の教会を訪れて賛美歌を披露する活動をしていたのです。
アレサと父の活動は、特に黒人社会の中では有名で、黒人公民権の運動家のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師とも交流があるほどでした。
ただし、このころになるとアレサは父親と一緒にではなく、父親の監視下においてではない活動をしてみたい、と感じるようになっていたのです。
デトロイトに戻ったアレサと父C・Lはいつものようにパーティーを開いて多くのゲストを招待します。
その中に、地元で音楽プロデューサーをしているテッド・ホワイトが来ており、アレサを一目見て気に入りました。
アレサもまんざらではない様子で、会話を始めますが、その様子を見ていた父C・Lは二人を引き離し、テッドを追い出します。
そしてアレサを呼ぶと、ニューヨーク行きの飛行機チケットを渡し、コロンビアレコードの社長ジョン・ハモンドにアレサを売り込んだことを発表したのでした。
ニューヨークでジョン・ハモンドと会い、父C・Lをマネージャーとしてコロンビアレコードと契約。アレサはこうしてジャズシンガーとしてプロデビューを果たすのでした。
承・父親からの巣立ちと最初の大ヒット
ジャズシンガーとして4枚目のアルバムをリリースしたものの、アレサはヒット曲に恵まれませんでした。
ある夜、バーでライブショーを開いていた時、そこに長年の家族ぐるみで付き合いをしている友人で有名な歌手であったダイナ・ワシントンが来ていました。
彼女が観客にいることに感謝を意を表するため、彼女を歌を歌おうとしたアレサでしたが、ダイナ・ワシントンはその行為に激怒します。
控室で悲嘆にくれるアレサのもとにダイナが現れ、彼女がなろうとしている歌手像について、厳しくも愛のあるアドバイスを与えるのでした。
それはアレサがなろうとしているものは父C・Lがアレサに望んでいる世間体に見栄えのいい理想でしかない、というもの。
ダイナは、他人が求めている、押し付けられたものではなく、自分自身から動き出したくなるような歌を見つけなければならない、と強く訴えたのでした。
そんな折、ニューヨークでアレサはテッドと再会します。
二人は急速に仲を縮め、付き合いだすようになるのでした。
9枚目のアルバムをリリースしながら、ヒット曲が出ないことからのフラストレーションで、アレサはついにレコーディングをすっぽかしてテッドと一緒に過ごすようになってしまいました。
コロンビアレコードが連絡の取れないアレサの代わりに父C・Lに連絡したことで、このことが父親に知られてしまったため、二人の関係はさらにまずいものになってしまいました。
さらにデトロイトに戻った二人でしたが、アレサがテッドを家族に紹介するために招待した時に、二人の仲は決定的なものとなります。
父C・Lがアレサをあきらめて姉妹をデビューさせようとしていることが分かり、アレサはテッドを新しいマネージャーにして活動をしていくと意思表明したのでした。
こうしてアレサは家を出て、テッドとともに歌手活動を始めることになります。
テッドとアレサはその後結婚し、二人の間に子供も生まれます。
が、アレサの芸能生活は上手くいかず、二人の間には気まずい雰囲気も出始めていました。
というのもテッドがアレサの意向を無視してなんでも一人で決めてしまうことが多くなってきたからです。
その後もヒット曲に恵まれないアレサは1961年、ついにコロンビアレコードとの契約を切られてしまいました。
テッドとアレサはアトランティックレコードのプロデューサー、ジェリー・ウェクスラーと契約します。
ジェリーはアレサの新アルバムをアラバマ州マッスル・ショールズでスワンパーズというミュージシャンと組んで「貴方だけを愛して(I Never Loved a Man the Way In Love You)」をレコーディングさせるのでした。
アレサの実力を認めたミュージシャンやスタジオマネージャーの協力もあって、レコーディングは上手くいっていました。
が、ただ一人、物事の流れが気に食わないテッドは終始不機嫌で、アレサとも意見の対立を始めてしまいます。
そして終にはスタジオマネージャーともケンカをし、レコーディングの予定を早めてニューヨークに戻ることになってしまったのでした。
その後もアレサに対するテッドのDVは続き、アレサは実家に戻ることを決意します。
家族は彼女と彼女の息子を優しく迎え、久しぶりに平穏な時間を過ごすことができるようになるのでした。
そして芸能活動のことを忘れて家族との時間を楽しむアレサの知らない間に、世間では大変なことが起きていました。
それはアラバマでレコーディングした「貴方だけを愛して(I Never Loved a Man the Way In Love You)」がとても好評で、最終的に彼女のアルバムとしては初めてBillboard 200でトップ40入りを果たし、最高2位に達したのです。
このことで自信を得たアレサは芸能活動の再開を決意。
テッドとも和解し、その後の活動に姉妹のアーマとキャロリンの協力を得ることにするのでした。
その後、キャロリンとアレサは、オーティス・レディングが作詞・作曲して1965年に発表した楽曲「リスペクト(RESPECT)」からインスパイアを受け、アレンジ・カヴァー曲を作ります。
これが1967年に全米第1位を獲得し、オリジナルよりも大ヒットするのでした。
転・成功の裏にあったアレサの苦悩
その後のアレサはスターとしての活躍をしていくことになります。
そして家族ぐるみで良き友人としての長い付き合いのあったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアより南部キリスト教リーダーシップセンターからの賞を受賞されたのでした。
しかも2月16日を「アレサ・フランクリンの日」と定めることも彼の口から発表されました。
このように、全てが上手くいっているように見えていたアレサでしたが、問題がないわけでもなかったのです。
同年の1967年、「リスペクト」の後に発表した「ナチュラル・ウーマン(You Make Me Feel Like A Natural Woman)」がヒットしていたのですが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアから章を受け取った次の日、アレサはメンフィスで行われる別の公民権運動に参加したいという希望がありました。
が、しかし、夫でマネージャーでもあるテッドの意向で、ジェリーや他のスタッフとの会議に参加するように強要されます。
そして結局、テッドのいう通りに会議に参加することになったのでした。
会議の流れを取り仕切りたいとふるまうテッドの横で会議に参加していたアレサは、ジェリーがヨーロッパツアーを考えていることを知ります。
イニシアチブを取れないことが不満なテッドは、なんだかんだと難癖を付けてます。
その結果、彼のいくつか要求によって変更した部分がありましたが、最終的にはツアーで見込める多大な利益のことを無視できず、テッドはアレサをヨーロッパツアーに参加させるのでした。
ヨーロッパでのツアーは大成功をおさめます。
が、その最中に驚くべき事実を知ることになるのでした。
それは、ホテルのロビーでテッドがアレサに対して暴力をふるっていた、という記事がタイム誌に掲載されたことです。
メンフィスでの公民権運動に参加したいため、会議に出席しないと言ったアレサに対してテッドが自分の言う通りにさせるために暴力を使った一部始終が、記事となっていたのです。
事実無根だと怒るテッドは、雑誌社を訴えようとしますが、多数の目撃者が存在する、すでに起こってしまった事実を、裁判でどうやって起こっていないと証明するつもりか、とアレサはテッドに言い放ちます。
そしてこの一件で完全に愛想をつかし、テッドとの結婚生活を終える決心をしたのでした。
テッドを追い出したアレサは、その後ツアーマネージャーであったケン・カニングハムと付き合い始めます。
その後、アレサは彼との間に4人目の子供を設けるのでした。
それから7年後、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺されるという事件が起こります。
その葬式でアレサは彼に対して歌を捧げるのでした。
その晩、大切な友人を失って気落ちしている父親のC.Lとホテルのバーでお酒を飲んでいたアレサでしたが、酔っぱらった父親が彼女に昔のように説法と賛美歌をして回るツアーをしたい、と言い出します。
が、アレサは父親と一緒に活動することには賛成できず、お酒が入っていたこともあって、口論となってしまいます。
こうして、アレサは父親と、再度袂を分かつことになるのでした。
結・ゴスペルへの回帰とアルバム「至上の愛-チャーチ・コンサート」
その後もアレサは多くのヒット曲を世に出し続けました。
と同時に、成功し続けなくてはならないという重圧を感じるようになっていったのです。
その結果、すでに他の予約が入っている同じ日に別の予約を入れて賠償問題をたびたび起こすようになりました。
不安を解消しようとお酒や薬物を摂取するようになり、依存症にまで発展してしまいます。
アレサの姉妹やパートナーのケンは、アレサの手助けをしようと試みるのでした。
が、逆にアレサは、彼女の成功に寄生しているだけの存在だと彼らを見下し、彼らからの助言には全く耳を貸そうとしませんでした。
そしてある日のコンサートショーで、酔ったままでステージに現れてパフォーマンスを初めてしまいます。
明らかに様子のおかしいアレサに観客もざわつき始めるのですが、ついにはステージから転落してしまうアレサに皆が凍り付いてしまいました。
ケンをはじめとしたスタッフはすぐに助けに駆け付けますが、このことでケンはアレサのもとから離れることを決意してしまうのでした。
手伝いに来ていた祖母もアレサの息子を連れてデトロイトに戻っており、カリフォルニアの大邸宅にはアレサ一人しかいません。
それでもお酒がやめられない彼女でしたが、ある時、死んだはずの母親がやってきて優しく彼女を包み込んでくれたことで、やり直す決心をします。
お酒を断って正しい生活を取り戻す努力をし、そのことを知ったケンも彼女の元に戻ってきて再び支えてくれるのでした。
アルコール依存症を克服したアレサは自分のルーツである賛美歌を再び歌いたい、と思うようになっていました。
そこでジェリーのもとに行き、賛美歌をメインとしたアルバムを作りたいというアイデアを打ち明けます。
賛美歌のアルバムでは大きなヒットは見込めないと渋るジェリーでしたが、アレサの固い決意を知って、とある提案を行います。
それは賛美歌のアルバムを制作している最中をドキュメンタリーとして録画することでした。
アレサはジェリーの申し出に合意し、古くからの家族の友人で、今は賛美歌の第一人者にまでなっているジェームズ・クリーブランドとともに制作を開始します。
ドキュメンタリーとして撮影をしていることもあり、失敗はできない、とプレッシャーに押しつぶされそうになってしまったアレサでしたが、ジェームズのサポートと、神のご加護を一番感じることのできる教会で、賛美歌を歌うことだけに集中すればいい、という助言で吹っ切ることができました。
アルバムの一曲としてアメージンググレースをレコーディングする日、教会には父C.Lの姿もありました。
C.Lはアレサにこれまでのこと、特に彼が原因でアレサの心に傷を負わせていた事柄全てに対して謝罪します。
父とのわだかまりを解消したアレサはアメージンググレースのレコーディングを無事終えるのでした。
この賛美歌アルバム「至上の愛-チャーチ・コンサート」は彼女の歌手生活の中で一番の売り上げを記録した作品であり、アメリカで200万枚以上のセールス記録を叩き出したアルバムとなりました。
最後に簡単な感想
映画「リスペクト」でアレサ・フランクリンという歌手のことを知りました。
が、彼女のヒット曲はいろんなところで耳にしていたので、「えっ、これも彼女の曲?あれも彼女の曲?」と驚いてばかり。
特に子供のころに見た「ブルースブラザーズ」では、映画出演もしており、「これがテッドの入っていた映画の話がある、というやつか。」と一人でニヤリとしていました。
一方で彼女ほど大成功していながらプレッシャーを感じ、お酒や薬に手を出してしまう下りは、成功しても幸せになれるとは限らない、と改めて強く思った次第です。
ちょっと名前を挙げれば、マイケル・ジャクソン、プリンスらも薬物接種が原因で命を落としていますし、人気を保たなければというプレッシャーから自ら命を絶ってしまったロビン・ウィリアムズなどが思い浮かんでしまいます。
彼女の場合は、信仰の力もあって無事に立ち直っていますが、人の幸せって何だろう?と考えさせられました。
ところで、主演を務めたジェニファー・ハドソンの歌唱力は素晴らしく、あとでアレサ・フランクリン自身がジェニファー・ハドソンの起用を認めていたと知りましたが、なるほど、と納得しました。
彼女が歌うアレサ・フランクリンのヒット曲の数々もおすすめしたい見どころです。
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