映画「女王陛下のお気に入り」は18世紀初頭のイギリスで実在した人物と実際に起った戦争をもとに作成されました。
映画内ではフランスと戦争とだけしか言及していませんが、実際にはフランス・スペインとイギリス・オーストリア・オランダがヨーロッパで戦った1701年から1714年に及ぶスペイン継承戦争のことを指しています。
また、サラの夫マールバラ侯はヨーロッパ大陸でイギリス軍を指揮して数々の勝利を収めています。
それでは映画の素材となった実際の時代背景やそれぞれの人物像を解説していきましょう。
時代背景
映画では18世紀初頭となっていますが、アン女王が即位したのは1702年です。
スペイン継承戦争自体は1701年に始まっていますが、それはオーストリアがスペインに対して当時スペイン領であったミラノを奪還すべく、北イタリアへ進行したことから始まります。
イギリスが参戦したのはアン女王が即位した後ですが、義兄に当たる先代王のウィリアム3世の時代から戦争の予兆ははっきりとしており、すでに準備を始めていました。
映画に登場するサラの夫マールバラ侯がヨーロッパ大陸に派遣され、オランダ軍と合流してフランス軍に対します。
マールバラ侯の活躍もあり、1703年にはオランダに迫ったフランスを押し戻し、1706年には完全にオランダからフランス軍を撤退させることに成功するのでした。
やがて長引く戦争にオランダやドイツで厭戦気分が次第に高まります。
同じ頃、1710年を最後にサラは宮廷に姿を見せなくなります。
実際サラは映画のように頻繁に宮廷にいるのではなく、時折しか訪問しなかったそうです。
それを機に停戦を主張する勢力が選挙に勝って政権を奪い、イギリスは休戦に入るのでした。
アン女王がサラ・チャーチルを完全に宮廷から排除したのは1711年。
この年の1月に英国王室での女官最高地位である衣服係女官を剥奪されます。
同年12月マールバラ侯も司令官を罷免されました。
映画にもあった公費横領が原因です。
この事件の後、サラとマールバラ侯がどの様になったかは映画では説明されていません。
失脚と同時に罰せられたのかといえば、そうではなく、マールバラ侯が司令官を罷免されてすぐ、年が変わって1712年になるとヨーロッパ旅行にでかけたのでした。
この旅行は1714年にアン女王が崩御するまで続きます。
このあたりの詳しいことはサラ・チャーチルの部分で解説していきますので、そちらをご覧ください。
アン女王の実際の姿
「アン女王の肖像画」
アン女王は1702年にイングランド・スコットランド女王に、1707年にグレートブリテンの初代君主に即位しています。
これはそれまでイングランドとスコットランドが別々の王国であったのを、1707年に法律で正式にグレートブリテン王国として統合されたためでした。
映画では全く触れられていませんが、アン女王にはジョージ1世という夫がいました。
この夫はもともとデンマーク・ノルウェー王家の出身で二人は1683年に結婚しています。
こちらがジョージ1世とのアン女王の肖像画になります。
映画でも台詞によって説明されていますが、6回の流産、6回の死産を含めた17回の妊娠をし、全ての子供を亡くしています。
生まれた5人も二人は生まれて間もなく、残りの二人は2年ももたず、最も長生きした息子ウィリアム王子も11歳で亡くなったのでした。
こちらがウィリアム王子とのアン女王の肖像画になります。
ちなみに王子が亡くなったのは即位する2年前、1700年ですので、もちろん映画に登場していません。最後の17回目の妊娠も偶然に1700年でした。
彼女自体に健康の問題があったと考えられ、それが原因でこのような不幸が続いたのでしょう。
夫は1708年に亡くなっており、本来であれば、映画内に登場しないとおかしいことになりますが、そこは都合上、割愛されたのでしょう。
映画の中ではサラがアン女王の恋人として描かれ、アビゲイルが奪い取ったように描かれていますが、アン女王がレズビアン、というより両刀使いであったことを示す証拠は残っていないようです。
ただし、サラとアン女王の仲が悪くなった際にサラが女王を誹謗中傷する中で同性愛者だと暴露したという記録が残っています。
サラが宮廷から排除されたのが1711年。その後、アンが崩御するのが1714年ですので、映画の中でアビゲイルが女王の寵愛を受けて権力を振るったのは3年の間、ということになります。
が、アビゲイルは本当に映画のように、野心家で目的のためには手段を選ばないような女性だったのでしょうか?
アビゲイルの実際の姿
「アビゲイルの肖像画」
没落貴族の娘でサラのいとこという設定ですが、実際は貴族ではなかったようです。
確かに母親はサラの叔母に当たるため、いとこであることは真実ですが、父親は商人でした。
ただ、映画のように生家が貧しく、生活が苦しかったため、サラに引き取られて家族とともに育てられました。
アン女王が即位してから、サラの斡旋によって宮廷に入ります。
1670年生まれですので、32歳という年齢でした。
サラよりも10歳、アン女王より5歳年下になります。
映画のようにアビゲイルの方からサラを頼って宮廷に入り込んだわけではなく、また、それまで面識もない、といったことはなかったのです。
サラは1703年に一人息子を天然痘で亡くしています。
それを契機に1704年以降、サラはほとんど宮廷に出なくなってしまった為、世話役として忠実に努めていたアビゲイルがアン女王から重用されるようになるのでした。
ただ、映画のように野心家で、必要とあれば手段を選ばず行動に出るという性格ではなかったようで、大人しい性格だったそうです。
つねに女王の傍に寄り添い、喜怒哀楽をともにし、政治的な圧力を掛けることはありませんでした。
また、映画では停戦派のロバート・ハーレーが女王に近づく手段としてアビゲイルを利用し、それをアビゲイル自身も出世のために利用したと描かれていますが、実際はロバートとアビゲイルは又従兄弟の関係にあり、ロバートがスペイン継承戦争の停戦のために、アビゲイルを利用したようです。
その方法としてアビゲイルの弟ジョンが軍人に取り上げられるといったものがありました。
映画では描かれなかったアビゲイルのその後ですが、アン女王が崩御すると宮廷を去ります。そして二度と宮廷に戻ることはなく1734年に64歳でなくなりました。
おおよそ映画のアビゲイルからは想像もつかない晩年です。
では、三人のうちの最後、サラ・チャーチルはどうだったのでしょうか?
サラの実際の姿
「サラの肖像画」
サラは1660年生まれ。アン女王が1665年生まれですので、実はサラのほうが5歳年上になります。
幼馴染という設定ですが、実際に二人が知り合ったのは1675年頃、サラが15歳、アン女王が10歳の頃です。
その頃からの付き合いということですが、この年令ですと幼馴染、という言葉で表していいものかどうか、ボクとしては首をひねってしまいます。
実際にサラとアン女王の絆が深くなった出来事は1688年に起こった名誉革命の混乱でサラと夫のマールバラ侯(この当時はまだ伯爵ではなかったが)がアン女王の命を救ったことによります。
歴史の事業のようになってしまいますが、簡単に名誉革命のことを説明しておきますね。
イギリスはもともと反カソリック勢力の強い国でした。
ところがアンの父親であるジェームズ2世がカソリックに国教を変えようとします。
それに反発した勢力が、プロテスタントであったアンの姉、メアリーに目をつけ、ジェームズ2世を退位させてメアリーを新しい女王にすることで対抗しました。
メアリーの夫であるオランダ総督のウィレム3世がオランダ軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世はアンが反対勢力に加担しないようにサラと一緒に軟禁します。
しかしこのとき、サラと夫のマールバラ侯の働きで無事脱出することができ、メアリーとウィレム3世の勢力に保護されるのでした。
その後、名誉革命はプロテスタント側の勝利に終わり、ジェームズ2世は亡命すルノでした。
メアリーはメアリー2世として即位し、ウィレム3世とイギリスを共同統治することになります。
このときの働きにより、サラの夫はマールバラ伯爵に叙爵されたのでした。
その後、メアリー2世の治世時代にメアリー2世とサラとの間で確執が生じますが、その際もアンはサラの味方をし、メアリー2世と対立します。
それはすなわち、アンとサラが不遇の時代を過ごすことを意味するのですが、逆にその間も、固い絆で結ばれていたため、アンが女王となった後に彼女の信頼を背景に大きな力を持つようになるのでした。
ところがアンが女王となると、映画とは異なりサラは自分の領地に建設した宮殿で多くの時間を過ごすようになります。
そのためサラとアン女王の間で多くの手紙のやり取りがされ、現在もそれらが残っていますが、アン女王はサラに政務や雑務について助言を頻繁に仰いでおり、サラは映画のように、女王を通して政治に大きな影響力を発揮していたのでした。
しかしアン女王はサラに親友として心の拠り所となってほしかったものの、サラがアン女王のもとにやってくることが稀であったため、彼女がアン女王を支配しているだけという形が目立つようになっていきました。
サラは女王に対していくつかの政治に関する要求や人事に関する要求をどんどんとエスカレートさせていきます。
一番の大きな原因は映画でも描かれていましたホイッグ党とトーリー党との政治争いに関するサラのアン女王に対する要求でしょう。
サラは夫のマールバラ侯とともに戦争推進派のホイッグ党を支持していました。
ところがアン女王は戦争休止を目論むトーリー党の方を好んでいたのです。
アン女王は親友のサラと政治の世界で拝見が異なることに苦悩していましたが、サラはそんなアン女王の葛藤などお構いなしに、夫の立場を第一に考えてホイッグ党を支持するように求め続けたのでした。
また、サラの一人息子が死去した際に、アン女王から悔みの手紙が出されていますが、悲しみが深かった性もあるでしょうが、サラは儀礼的な対応しかしませんでした。
その後、今度はアンの夫ジョージが亡くなった際には、呼ばれもしないのに宮殿に入り、アン女王とジョージの遺体と対面し、悲しみにくれる女王を叱り飛ばして、別の宮殿に連れ去ったのでした。
この頃になると、アン女王の気持ちは、不在で手紙でしかやり取りができず、自分の要求ばかり押し付けてくるサラよりも、いつも献身的に仕え、喜怒哀楽をともにしてくれるアビゲイルの方に移っていたのです。
1710年に選挙でトーリー党が勝利し、政権が変わったことでスペイン継承戦争も停戦の方向で動き出しました。
サラは女王の前に姿を表さなくなっており、翌年官位も剥奪されます。
夫のマールバラ侯も戦費横領の疑惑を受けてトーリー党政権より調査が行われ、有罪と決定されて司令官を罷免されてしまいました。
ここまでは映画で描かれいましたが、その後のサラとマールバラ侯はと言うと、イギリスを離れ、ヨーロッパを旅行します。
戦争中のマールバラ侯の活躍により彼の名前は広くしられており、共に戦った諸侯は彼らの訪問を歓迎したのでした。
そのままドイツやオーストリアに、滞在することもできましたが、サラはそれを望まず、1714年にアン女王が崩御した後に、イギリスに戻ります。
アン女王には後継者がいなかったために、女王の遺言によってハノーファー選帝侯ゲオルク・ウートヴィッヒがジョージ1世として即位します。
ジョージ1世はスペイン継承戦争でマールバラ侯と一緒に戦ったこともあり、ジョージ1世によって大将軍という地位につくことができたマールバラ侯は名誉を回復したのでした。
しかもジョージ1世の即位に尽力したのがホイッグ党であったため、ジョージ1世即位後ホイッグ党を優遇してトーリー党を弾劾したこともサラとマールバラ侯がイギリス政界に復活する手助けとなりました。
その後、マールバラ侯は1722年に、サラは1744年に亡くなっていますが、サラは84歳という長寿を全うしました。多くの孫たちを有力貴族らと婚姻を結ぶことができるように活動し、その勢力の安定を図ることに成功させたため、3人の中ではいわゆる勝ち組だったのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
映画は監督が表現したいエンターテインメントを追求させるため、史実とかなり違う設定にさせていたことがわかったと思います。
歴史映画というよりは、実在した人物を拝借しての人間ドラマを作り上げたかったのでしょうから、面白いお話として楽しめればいいのではないでしょうか。
逆にこの映画で興味を持ち、実際の歴史はどうであったのか、まで気になって調べたくさせたのであれば、大成功でしょう。
ボク自身がそうなってしまったうちの一人でしたので、まんまと映画の世界に取り込まれたわけです。
とくに映画の終わり方は、その後の三人がどうなったのか、とても気になるものでした。
とてもではないけど、あのまま終わりではないような、そんな雰囲気が満載だったと思います。
そういう興味深い終わり方も、結構いいものだな、と思える作品でした。
コメント