アニメ「地獄楽」に登場する主要キャラクター「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」
死罪人とその監視役でありながら、実は血のつながった本当の兄弟。
赤稿藩の武家出身でありながら、藩の改易、両親の死亡を経て、盗賊にまで落ちぶれてしまいました。
その後、追っ手によって追い詰められ、捕まる寸前に、兄の亜左 弔兵衛だけが捕まります。
が、それは弟の桐馬が逃げ出すためのすきと作る目的であり、うまく逃げ出した桐馬は兄を救うために、山田家に入門したのでした。
入門後、桐馬は修行の末、一か月という異例のスピードで代行という位まで昇り詰め、亜左 弔兵衛の監視役になることに成功して極楽浄土の島まで一緒にやってきます。
これが、「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」の設定ですが、二人の出身となっている赤稿藩とは、いったいどのような藩であったのでしょうか?
今回は、この赤稿藩について、紹介していきたいと思います。
地獄楽・亜左弔兵衛と桐馬出身の赤稿藩は実在した?
「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」の出身とされる赤稿藩。
実はこのような名前の藩は江戸時代に存在しません。
本作「地獄楽」のみ登場する、架空の藩です。
ですが、この赤稿藩の元ネタとなる藩は、存在します。
それが読み方は同じの「赤穂藩」です。
赤稿藩の元ネタは「赤穂藩」
江戸時代の「赤穂藩」は日本の歴史好きな人には有名な藩です。
藩の開祖は豊臣秀吉の妻である寧々の甥である浅野長政の孫にあたる浅野長直という人物。
長政が関ケ原では徳川家康に味方した関係で、紆余曲折の上、1610年に赤穂浅野家が誕生しました。
現在の場所でいうと兵庫県赤穂市、相生市、上郡町といった地域です。
旧国名で播磨国赤穂郡と呼ばれていたため、赤穂藩となりました。
そしてなんといっても一番有名な歴史的事件は「元禄赤穂事件」。
この事件は歌舞伎や人形浄瑠璃で「忠臣蔵」として大人気となったことでも知られており、時代劇の題材としてテレビドラマや映画としてよく扱われていました。
アニメ「地獄楽」でも「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」の父親が死亡した理由は、この「元禄赤穂事件」で仇討ちに参加したための死罪となっています。
父親が参加した主君の仇討ち事件の元ネタ
アニメ「地獄楽」でも主君が江戸城内で吉良上輔を切り付けた責任で切腹し、藩は改易となって消滅したことになっています。
そして相手方の吉良上輔が生きていたため、二人の父親は浅野宅矩の家臣が仇打ちに参加し、仇打ちは成功したものの、私刑を行った罪で処刑されてしまいました。
この事件は実際に起こった元禄赤穂事件と内容をそのまま一緒にしてあります。
ただしこの事件が起こったのは1701年、5代将軍綱吉の時代。
「地獄楽」の時代は将軍が第11代徳川慶斉ということで、年代的にもかなり開きがあることになります。
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現実世界では浅野 内匠頭 長矩(あさの たくみのかみ ながのり)という赤穂藩主が、江戸城内で吉良 上野介 義央(きら こうずけのすけ よしひさ)に切りかかりました。
切られた吉良でしたが、傷を負ったものの命に別状はなく、切りかかった浅野は捕まって将軍の命令で切腹となります。
そして赤穂藩は取りつぶしになるのでした。
元禄赤穂事件で名高い「忠臣蔵」
その後、浅野家の復活を江戸幕府に願い出ていたものの、それがかないませんでした。
そのため、赤穂藩の元家来のうち、47名が、全くお咎めのなかった吉良を屋敷にまで討ち入ります。
そして吉良を探し出して、仇打ちを称し、殺害するという事件が元禄赤穂事件のあらましでした。
無事に吉良を討ち取った47名は、その後幕府に捕縛されます。
そして4大名家に分けてその身柄を拘束しました。
討ち行った元家来を、武士として優遇した藩もいれば、罪人として厳しい扱いをした藩もあったそうです。
その後、47名は全員、預けられている大名家において切腹をするよう、幕府から命令が降りるのでした。
幕府は、彼らが行った行為を仇打ちとは認めず、「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いた、という見解を終始一貫していたからです。
一説には赤穂藩の元家来47名は、切腹の沙汰に涙を流して喜んだ、と記録されているそうです。
赤穂浪士の遺児達のその後
現実に起こった元禄赤穂事件において、仇打ちに参加した47名は切腹という処分になりました。
もちろん彼らにも遺児などの家族が残っています。
彼らに対する処分は、15歳以上の男子は伊豆大島に遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になると遠島というものでした。
一方で、女子は構いなし、とされていました。
アニメ「地獄楽」でも同じような処分が下っていたのであれば、二人は盗賊に身を落とすことはなかったでしょう。
ただし、常に監視の目のある生活を送らなければならず、15歳になったら伊豆大島に島流しになる運命だったわけです。
ちなみに、島流しにあった遺児ですが、時の将軍綱吉が死去した際に恩赦が出され、伊豆大島からの帰省が認められたのでした。
また、元禄赤穂事件が「忠臣蔵」として人気が出てくると、諸藩は仇打ちに参加した47名を「義士」と呼び、その遺児たちをこぞって召し抱えるという行動に出ます。
そして藩主自ら、遺児に目通りを許し、「元禄赤穂事件」の際に、祖先である義士がどのような活躍をしたのか、物語をさせる、ということを行ったそうです。
「地獄楽」では、「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」が極楽浄土の島に送られているところを見ると、現実に起こったような人気者になるような機運は、なかったのでしょうね。
「亜左弔兵衛」と「桐馬」は実在した?モデルはいるのか?
「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」が出身となった赤稿藩は、赤穂藩がモデルで父親が参加した仇討ち事件も実際に起こっていたことが分かりました。
では、「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」という藩士は実在したのでしょうか?
「元禄赤穂事件」に参加した47名の名前はすべてわかっており、その中で「亜左」姓の武士は存在しません。
では、47名の義士のうち、幼い兄弟が遺児として残った、というケースを調べてみましたが、これに合致する記録は発見できずじまいでした。
そのため、「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」という人物も、彼らのモデルとなった兄弟もいなかったと考えて間違いないと思います。
他の時代で彼ら兄弟のような逸話を残した人物がいたかどうかも、調べてみましたが、犯罪者の兄を救うために弟が役人になった、というような有名な兄弟がいたという事実は見つかっていません。
おそらく「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」兄弟は、彼らの境遇も含め、すべて作者の創造力から生まれたのだと思われます。
まとめ
アニメ「地獄楽」に登場する「亜左 弔兵衛」と「山田浅ェ門 桐馬」
彼らはかつては赤稿藩士の父を持つ武家の出身でした。
が、この赤稿藩という名前の藩は、実際の江戸幕府内には存在しない、架空の藩だったのです。
現実には「赤穂藩」がモデルとなっており、そこで起こった「元禄赤穂事件」も二人が盗賊にまで身を落とした原因として、赤稿藩でも起こったことになっていました。
ちなみに、現実世界で起こった「元禄赤穂事件」は1701年の事件であり、時の将軍は第5代目の徳川綱吉です。
アニメでは時の将軍は第11代徳川慶斉ですので、年代はかなりの開きがあると思われるのでした。
また、現実世界では元禄赤穂事件で仇打ちに参加した47人の義士の遺族は、そののち、大変な人気が出たので、他の藩への仕官は引く手あまただったようです。
アニメの中の二人のように、今日の食うものも困って盗賊にまでなり下がる、ということはなかったのでしょう。
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