アニメ「地獄楽」に登場するくノ一「杠」
自ら語った生い立ちは多少信頼性が低いものの甲斐の国出身だそうです。
忍者修業は霙谷(みぞれだに)ですが、彼女は霞谷(かすみだに)と言い間違えていますし、そこで起こった出来事も適当な作り話感、マックスでした。
ところで甲斐の国で杠が忍術修業をした霙谷、実在している地名なのでしょうか?
忍者と言えば伊賀と甲賀が有名ですが、甲斐の国にも忍者がいたのかどうか、しれべ手見ましたので、併せて紹介していきたいと思います。
地獄楽・杠の甲斐の国霙谷(みぞれだに)は実在する?
調べてみた結果、かつての甲斐の国、今の山梨県に霙谷という地名は実在しなさそうです。
グーグル先生もグーグルマップでもそれらしい場所はヒットしませんでした。
ですので、おそらくは作品内だけ存在する架空の設定だと思われます。
一方で甲斐の国の忍者の歴史について調べてみると面白いことがわかりました。
そちらのほうを紹介していきたいと思います。
甲斐の国の忍び・甲州忍者の解説
日本の歴史を調べてみると「忍者」と思われるような存在はかなり昔から存在していました。
ただ、「忍者」というよりは諜報員、工作員といった戦を有利に進めるための裏方要員として使われていた人々がいた、という記述になっており、彼らが忍者と自称したとか、他の人々が忍者と呼んだ、という記録はありません。
どれくらい昔からかというと、平安末期の源平時代にまでさかのぼります。
日本各地で平氏と源氏が戦をしていた時代ですので、諜報員の重要性が増したのでしょう。
このころ、忍者としての術をある程度体系化し、兵士に訓練を指せていた記録が残っています。
もちろん、これ以前に忍者がいなかったわけではなく、偵察や敵情視察などのスパイ行動はよく使われていて、それを専門に行う役割の人たちを訓練していたことが分かっています。
武田信玄が組織した忍者集団 日本中が戦をして自分の勢力の拡大をしていた戦国時代が、忍者が最も活躍する時代でもありました。 各地にいた戦国大名たちは勢力拡大や戦での勝利のために情報収集をとても重要視しており、それを担当する専門の人々を組織していたことが文献などで確認できます。 甲斐の国の戦国大名と言えば武田信玄が有名ですが、彼もまた、勢力拡大のため忍者集団を組織していました。 甲州透波(すっぱ)と三ツ者
信玄が組織した忍者集団は甲州透波(すっぱ)と呼ばれており、合戦において“伏せかまり”、“くさかまり”、“かぎもの聞きき”などの斥候や敵兵の攪乱などにつかわれていたようです。
いわゆる戦場における情報収集要員・斥候ですね。
甲州透波は甲賀者、あるいは信濃の忍者を雇ったと記録に残っています。
また戦争のない平時でも透波たちは二人組にして敵地に侵入して情報収集をします。
そして決められた日時に国境にて連絡係の武士と情報交換をし、調べた情報を伝えてからまた潜入地にもどるという方法をとっていました。
こうして集められた敵情は早馬で甲斐国府中の信玄館に報告され、信玄の戦略に生かされていったのでした。
ところが信玄は1547年の村上義清との戦で大敗北をしてしまいます。
それによって甲州透波隊を管理していた板垣信方と甘利虎泰が戦死したため、再編成をする必要が出てきました。
その結果出来上がった新体制の諜報組織の集団が「三ツ者(みつもの)」と呼ばれる忍者集団です。
名前の由来は、間見、見方、目付の3つの仕事をあつかったためと言われています。
出家、町人、百姓などの中からも諜報の才覚のある者を探しだして人数を集めたといわれ、その数は二百人という大組織であったそうです。
これほどの大組織であったため、戦場での斥候という役目より、その前に必要な諜報部員という要素が強かったようです。
潜入地の軍事力、城砦・町割り、城主の内情や家臣の関係、武将たちの能力から噂話まで調べ上げるという情報収集まもちろん、敵地で扇動工作や寝返りしそうな武将を探すといった諜報活動も行っていました。
くノ一集団「歩き巫女」
上記のような忍者集団は何も武田信玄の専売特許ではありません。
他の名だたる大名も同じような忍者組織を作り上げ、日々、情報戦を行っていました。
一方で記録上、武田信玄だけが行っていたとされるのがくノ一集団を作り上げていたことです。
その集団こそ、「歩き巫女」
またの名を「ののう」
くノ一集団・歩き巫女の養成機関があったとされる地域で巫女のことを「ののう」と呼んでいたことからついた呼び名だそうです。
この時代、全国的に歩き巫女という職業の女性がいたようです。
彼女らの姿は白衣の巫女装束に外法箱を紺色の風呂敷につつんで背負い、白木の梓弓をって、全国を旅しました。ちなみに神職ゆえ肉食は禁じられていたようです。。
彼女達は祭りなどの市を求めて全国を流れ歩き、そこで祓はらいや禊みそぎをおこなっっていました。
また、病気の治療、易占や予言、調伏、呪術・祈祷などもしていたようです。
中には旅芸人をする歩き巫女もいたとか。
このため、歩き巫女たちは他にも地方によって、口寄せ、市子(いちこ)、県語(あがたがたり)、笹帚(ささばき)とも呼ばれていました。
弓弦の弾音などで神がかり状態となり生霊や死霊をよびだす口寄せの巫女は梓あずさ巫女という名がつけられていました。
歩き巫女なかには春をひさぐ遊女もいて、。そちらは遊女の別名である白湯文字、旅女郎とも呼ばれたそうです。
こういった歩き巫女に目を付けた信玄は、くノ一集団を作り上げ、他国の情報収集のために利用した、というのです。
この時代は今よりもっと、男女の間の敷居が高かったことが容易に想像が付きます。
男性は男性同士、女性は女性同士と集まりやすい傾向があったでしょう。
ですので、歩き巫女に対しての客は女性が多くなるといって良いと思われます。
元来、女性は話好きであり、世話になった歩き巫女に対して思わず警戒心を解いて重要な噂話を漏らしてしまう可能性は高いといえるでしょう。
また、女性ならではの観察力から、男性では気が付かない変化にいち早く気が付くこともあったのではないでしょうか。
そんな情報でも、集めるだけの価値があると判断し、信玄はくノ一集団を作り上げたようです。
ただし、歩き巫女は情報収集を任務としており、杠のような戦闘能力はなかった、と考えられます。
もともと、くノ一と言われる女忍者は、伊賀の国でも存在が明記された資料が見つかっておらず、どちらかと言えば忍者が女性を使って任務を遂行することを「くノ一の忍術」としていたのが正確なところだったのです。
まとめ
アニメ「地獄楽」に登場する杠。
彼女が忍術を修業したという霙谷という場所は実在しない、架空の場所である可能性が高いです。
ただ、甲斐の国の忍者の歴史を調べてみると、戦国大名であった武田信玄がくノ一集団を作って情報収集をしていたという事実が分かりました。
歩き巫女と呼ばれるくノ一集団で、主に情報収集を任務としていたようです。
そのほか、多少の諜報要因としての訓練は受けていたようですが、杠のような戦闘能力はなかった、というのが、事実だと思われます。
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