映画ジュディ虹の彼方にでジュディガーランドがやばい生活&残念な性格になった理由を解説!

映画

映画「ジュディ 虹の彼方に」はミュージカル映画の傑作である「オズの魔法使い」で主役のドロシー役を演じたジュディ・ガーランドの伝記映画です。

それも、亡くなる最後の二年前にフォーカスし、若いころの記憶も回想という形で何度か描写されるようなストーリーになっています。


ハリウッドで若くして大成功し、巨額の富を築いたはずのジュディ・ガーランド。

そんな彼女が晩年は未払いのためホテルから追い出され、自宅も持たない破産寸前の経済状態のうえ、薬物中毒で睡眠障害と、ぼろぼろの状態でした。

そこで、今回は、僕が気になった、ジュディ・ガーランドはなぜ、あんなやばい生活を送り、残念な性格になったのかを、過去の出来事から考察していきたいと思います。







ジュディ・ガーランド誕生の経緯が残念

ジュディ・ガーランドのことを調べてみると、彼女が生まれるときから、暗雲が立ち込めていたような、家族問題があったことが分かりました。

ジュディの妊娠経緯と誕生までの問題

ジュディが生まれたのは1922年6月10日。
3人姉妹の末っ子として生まれます。

が、父親で舞台演劇者のエーセル・ミリオンと母親でピアニストのフランシス・ガムは、ジュディの妊娠が分かった際、それに全く喜びませんでした

それどころか、子供が生まれるのを止めたかったほどだったのです。

当時のアメリカでは中絶は違法でした。
父親は薬物に詳しい友人に流産を起こすような薬がないかなど、違法な中絶方法が可能かどうか、調べたそうです。

が、そのような行為は母体に大きな危険を及ぼすため、結局は中絶を断念。
ジュディが生まれることになります。

こうしてジュディは1922年6月11日に無事出産され、「フランシス・エーセル・ガム」と名付けられたのでした。

ジュディが生まれてから

しかし、なぜ両親がジュディの出産を望まなかったのかは、理由が明らかにされていません

一説によると、父親が他の男性と不倫関係にあったからだ、といううわさがあります。

とはいえ、それはうわさでしかなく、ジュディを望まなかった明確な理由ではなさそうです。
が、後年ジュディが自身の幼少期を思い出して語ったところでは、家庭環境は良くなかったとか。

両親は分かれては復縁し、ということをずっと繰り返していたそうです。
当然、家庭内は喧嘩が絶えず、幼いジュディは両親のどちらかと別れ離れになってしまうのではないか、という不安に常に襲われていたと語っていました。

ただし、そんな問題だらけの両親、家庭ではありましたが、ジュディに他の家庭では与えられないものを与えてくれたのです。

それは芸能界へ道

しかし、その道もはたしてジュディにとって本当に幸せな人生を送れたことにつながったのかどうか、調べれば調べるほど、考えさせられるのでした。

ジュディ・ガーランドの芸能生活もやばい

ジュディは物心つく頃から、両親によってショービジネスをさせられます。

子供のころに感じていた両親への思いについて聞かれると、彼女はこのように返答したそうです。

「子供のころ、両親から自分が必要とされていると感じたときは、自分が舞台に立つ時だけだった

それ以外に親の愛情を感じたことはなく、母親が『舞台に立たなければ折檻をするぞ』、と脅してきた時のことを今でも鮮明に覚えている。」



そんな、毒親に強要されて進んでいくことになったジュディの芸能生活の歴史を、詳しく見ていくことにしましょう。

三人姉妹でグループとして活動

ジュディの初舞台は2歳半の時

クリスマスにジングルベルを舞台で歌ったのが、最初だそうです。

その後、姉二人と一緒に「ガム・シスターズ」というグループ名で、母親のピアノ演奏にのせて舞台でパフォーマンスを行うようになりました。

この時ジュディは末っ子でまだ幼い女の子ということもあり、「ベイビー」と呼ばれていました。


姉妹でパフォーマンスをしてアメリカ中の舞台回りをしていたのですが、1934年のシカゴの公演の際、劇場に張られた彼女たちのグループ名がスペルミスで「GUM Sister’s」であるところを「GLUM Sister’s」となっていたことに気が付きます。

「GUM」は彼らの苗字でしたが、それに「L」が加わって「GLUM」となると、「うるさい」とか「騒々しい」、「やかましい」という意味の単語に代わってしまいます。

コメディアングループなら笑えるかもしれませんが、歌と踊りを届けるパフォーマーとしてはグループ名「うるさい姉妹」ではお客は呼べません。

そこでかつて彼女たちの舞台を見て「(クリスマスに飾る)花輪のように美しい」と評されたことがあったため、「ガーランド・シスターズ」にグループ名を変え、その際にジュディも自分の好きな歌の名前であった「ジュディ」を取って、名前を変更します。


しかし1935年に姉の一人が結婚し、もう一人もソロで活動を始めたことで「ガーランド・シスターズ」は解散となったのでした。

MGMとの契約と「オズの魔法使い」の成功

ジュディは10歳のころから母親よりアンフェタミン系の覚せい剤を服用するように強要されていました

この当時アンフェタミンは合法の強壮薬で、舞台の上でエネルギッシュにパフォーマンスができるように、というのが母親がジュディに命じた理由。


そしてソロ活動をしていた13歳の時、MGMスタジオと契約を交わし、専属の俳優となります。

社長はジュディのことを気に入らなかったそうですが、プロデューサーが彼女の歌唱力に目をつけ、社長の意向を無視して契約をしたそうです。

が、子役としては年を取りすぎ、大人の女優としては若すぎるジュディの扱いに、MGMスタジオはどのように売り出すか、決め切れていなかったようです。

コンセプトとして「どこにでもいる近所の女の子」という路線を作り上げ、歌唱力の高さを生かすためにラジオでの出演が初期の活動でした。

「近所の女の子」というイメージを作り上げるため、歯と鼻の矯正を命じ、また、数字的には適正体重で健康そのものであったにもかかわらず、見た目がぽっちゃりとしていたという理由で厳しいダイエットをさせたのです。

「オズの魔法使い」はジュディの他に先に候補に上がっていた女優がいましたが、スケジュールの都合で撮影に参加できず、ジュディに主演が回ってきます。

この時彼女は16歳でしたが、物語のドロシーはそれよりも幼い女の子の設定であったため、その年齢に合わせるようなメイクと衣装をし、コルセットを締め上げて、若く作りをさせられたのでした。


彼女はかわいらしい容姿ではあったものの、芸能界の女優によく見られる淡麗、美貌というジャンルには属しておらず、そのことを自身で嫌というほど感じていただけでなく、周りからも何かと指摘される環境でほとんどの時間を過ごすことになります。

そのことが彼女に一生消えない傷を残し、自身のことに自信が持てない性格を作り出してしまいました

映画で「オズの魔法使い」という大ヒット作品を生み出し、ライブショーでは有名な劇場を満員にするパフォーマンスを披露し、世界最高峰の賞を受賞しても、この傷を克服することはできず、常に自分には才能があり魅力的である、という安心感を得ることを求めていたのです。

「オズの魔法使い」の成功の後

「オズの魔法使い」の成功の後も、彼女に対する扱いは改善することはありませんでした。

MGMスタジオは彼女の成功で、彼女が多くのお金を稼いでくれることに気が付くと、馬車馬のように働かせることにしたのです。

彼女を主演にしたものを作ればお金になるため。映画の撮影スケジュールはとんでもなく過密なものとなり、そのスケジュールをキープするためにアンフェタミンを常用させます。

そして覚せい剤によって気持ちが高ぶって睡眠がとれなくなる副作用のために、鎮痛睡眠剤も服用させました。

この時のスケジュールは、

「4時間の睡眠を鎮痛睡眠剤で取った後、アンフェタミンを服用して72時間の撮影をし、また4時間の睡眠を薬でとる、の繰り返し」

だったそうです。


「オズの魔法使い」に主演したジュディでしたが、映画が公開されてから、彼女が自身で劇場で視聴できたのは公開から1年後、という時間がたった後でした。

それほどスケジュールが忙しく、映画の公開日にはジュディはアメリカ中をプロモーションツアーで回っていた最中だったのです。


そんな生活を長く続けていくことはできるものではありません。

ジュディも体と心が悲鳴を上げだし、体調不良、もしくは精神不安定の状態から撮影に参加できない日が多くなっていきます。

それがだんだんとひどくなっていき、それにアルコールの過剰摂取も加わって体調はよりひどいものになっていくのでした。

ついには参加していた映画の撮影に支障をきたすほどになったため、撮影途中で主演が変更になる、という事件が起こります

その作品は、

    ・1949年公開の「The Barkleys of Broadway」
    ・1950年公開の「ロイヤルウェディング」
    ・1950年公開の「Annie Get Your Gun」

でした。

さらに追い打ちをかけるように、1950年、ジュディは自らの首を切りつける自殺未遂を起こします

後のインタビューで答えたのに、

「将来のことを考えても混乱しかなかった。」
「過去も未来も一切消し去ってしまいたかった。」
「自分と自分を傷つけてきた人たちみんなを傷つけたかった。」

と話しています。


まさに、負のスパイラルに落ち込んでいるのが見て取れるのではないでしょうか。

    自己肯定感の欠如により、常に成功していないといけない恐怖と不安に苛まれる。

    そのためには、与えられた殺人的スケジュールをこなさないといけない。

    そのために、薬物に頼らざるを得ない

    薬物のせいで健康状態が悪化し、スケジュールを守ることができない

    スケジュールを守れないので、映画から外される。

    映画から外されるから成功することはできない。

    成功できないからさらに不安感に襲われ、お酒と薬に頼るしかない

    お酒と薬に頼るから余計に体調が悪くなる。



もう、こうなってはよほど根本的に直さない限り、何をやっても負のスパイラルに落ち込むことは簡単に想像がつくでしょう。

この状況は、その後多少よくなる時期もありましたが、基本的に、ジュディの自己肯定感の欠如は克服されることなく、薬物からも離れられずに命を落とすことになります

たぐいまれなる才能を持ったジュディは、その才能に群がる餓鬼によって、完全に壊されてしまったといっていいのではないでしょうか。

ジュディ・ガーランドの結婚生活もやばい

ジュディは家族に、特に両親に恵まれていませんでした。

父親は彼女がMGMスタジオと契約して数年で、髄膜炎を発症してあっという間になくなってしまいます。
そしてこのことは、彼女に大きなショックを与えてしまいます。

その一方、マネージャーであった母親は、彼女のためとは思えない態度で彼女の成功を追い求め、ジュディ曰く「母親は現実に存在した本物の悪い魔女」と言わしめるほどの人物でした。


そんな彼女が孤独感や肉親の愛情を求めて幸せな家庭を夢見るのは、簡単に想像がつくと思います。

が、不幸にもジュディは幸せなロマンス人生を歩んだわけではありませんでした。


映画では5人目の夫との馴れ初めから結婚、そしていさかいまでを見せてくれます。

が、5人目ということですので、それ以前には1人目から4人目が存在したことになるわけです。


最初の旦那はデヴィッド・ローズという音楽家でした。

彼はすでに既婚者。二人は恋人同士の関係、つまり不倫の関係となります。
ジュディが18歳、デヴィッドが30歳の時でした。

1年後の1941年にデヴィッドが離婚し、二人は結婚します。
そしてジュディは妊娠したのでした。

が、MGMスタジオ、母親、そして旦那のデヴィッドはジュディの出産に反対します。
結局ジュディは赤ん坊を中絶し、芸能生活をつづけたのでした。

ちなみにデヴィッドとは1944年に離婚しています。


映画では3人目の旦那、シドニー・ラフトが登場しています。

常識人として描かれているような印象を受けましたが、記録では3人目のシドニーと4人目のマーク・ヘロンはジュディを幸せにするために結婚したというより、ジュディ・ガーランドというエンターテイナーを復活させたいがために結婚したようでした。

シドニーは5人の夫の中で13年という一番長い間、ジュディと夫婦でいた夫です。

1950年にMGMスタジオとの契約を破棄されたジュディは、活躍の場をライブショーに移します。

公演はアメリカだけでなくイギリスやアイルランドにも広がり、かつての人気を取り戻しました。

その後、テレビにも進出し、自身の番組を持つようになります。

その尽力にシドニーの力があったわけですが、二人の関係が円満であったか、というとそうではなく、結婚して4年後の1956年には離婚の話が持ち上がりました。

おそらくジュディという女性は幸せな家庭に強い願望と理想を持っていたのでしょうが、現実には良い時ばかりではなく、悪い時もあり、悪い時にどう協力して乗り越えていくか、の方法を身に着けていなかったのではないか、と思うのです。

そのことでけんかとなると、幼いころからトップスターであったことが、逆に災いし、妥協して仲直りするという能力に欠けていたのではないか、と思ってしまいました。

何はともあれ、

    一人目は1941年から1944年
    二人目は1945年から1951年
    三人目は1952年から1963年
    四人目は1965年から1967年
    五人目は3か月ちょっと

というそれぞれの結婚生活期間でした。

まとめ・ジュディ・ガーランドの性格をゆがめたもの

ジュディ・ガーランドという「オズの魔法使い」で今でも世界的に有名な女優は、ついには薬物の過剰摂取による中毒死で47年の生涯を閉じることになりました。

誰もなしえなかった偉業を達成した半面誰も体験したくないような過酷な人生を歩んできたように思います。

そしてそのことがジュディの性格に影響しないわけはなく、そのことでどんどんと負のスパイラルに陥っていったといえるでしょう。


ジュディ・ガーランドは誰もが持ちえなかった才能を持っていましたが、結局親を含めた周りの人間が、その才能をリスペクトすることなく、「金の成る木」として利用するだけした結果、このような悲劇のスーパースターが生まれたのだと思います。

そんな彼女ですが、映画で観客が彼女を称賛したときに感じていた満足感、そこに幸せを感じていたのが、唯一の救いというか、彼女にも楽しい時間はあったのだな、と救われる気持ちになったのが、印象的でした。











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