映画「ジュラシックワールド2 炎の王国」では、ストーリーの後半、エンディング近くでクローン人間であるメイジーの手によって、恐竜たちが人間の世界に解き放たれてしまいます。
この行為に対して、多くの視聴者から、
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「絶対やってはいけない行為」
「無茶苦茶」
「共感できない」
など、多くのネガティブな反応がなされています。
今回は、なぜクローン人間のメイジーが恐竜を世界に放ったのか、その理由について考えてみたいと思います。
映画「ジュラシックワールド2 炎の王国」の本当の主題
映画「ジュラシックワールド2 炎の王国」は「ジュラシックパーク」シリーズと前作の「ジュラシックパーク」から、その主題が、
「己の力を過信した人間が手を出してはいけない科学の分野で禁断の技術を作り出したがために、その圧倒的な力の前になすすべもなく逃げ惑う」
という、皮肉めいたものだと考えられているように思います。
そういう僕も、てっきりそうだと思っていました。
が、しっかりと調べてみると、実は「ジュラシックパーク」シリーズと「ジュラシックワールド」シリーズでは主題が異なることが分かったのです!
「ジュラシックパーク」シリーズでは、クローン技術という扱いきれない技術で恐竜を復活させたものの、恐竜を制御することができず、追いかけまわされて逃げることしかできない恐怖を描き、人間の愚かさを表現することが主題の一つでした。
それは、初代の「ジュラシックパーク」が公開された1993年には、クローン技術というものがまだどちらかといえば夢物語の憧れの技術と認識されていたからです。
ところが「ジュラシックワールド」が公開された2015年にはクローン技術がかなり進歩しており、クローン技術で生まれた生物と生きていくことは夢物語ではなくなりつつあったのです。
2000年にブタ、2001年に猫、2003年にラットと馬、2005年に犬、2018年にはついに猿のクローンが誕生し、「理論上はクローン人間も可能」というところまで来ているのです。
そんな世界になっている今、「ジュラシックパーク」のころの、
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クローン技術は便利かもしれないけど、一歩間違えれば世界を破滅させる可能性もある夢の技術
という主題は、時代遅れとなってしまったのでした。
実際に「ジュラシックワールド」の脚本と監督、「ジュラシックワールド2 炎の王国」で脚本を担当したコリン・トレヴォロウは、スティーヴン・スピルバーグに相談し、「ジュラシックワールド」シリーズの主題を「ジュラシックパーク」のものから変更したほうが良いのではという考えに賛成をもらったことを明かしていました。
つまり、「ジュラシックパーク」シリーズと「ジュラシックワールド」シリーズでは訴えたい主題が違うため、同じ見方で映画を見ては正しい評価ができない、ということになっていたのでした。
「ジュラシックワールド」の本当の主題はまさに、
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「クローン生物のと共存」
だったのです。
映画「ジュラシックワールド2 炎の王国」でのクローン人間の存在理由
映画「ジュラシックワールド2 炎の王国」の主題が、
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「クローン生物のと共存」
であるからには、クローン人間としてメイジーが登場したことも、ただのご都合主義であったわけではないことが分かったと思います。
過去に絶滅した恐竜でさえ生き返らせるクローン技術があるのだから、人間のクローンも作り出すことができる。
それだけではなく、ほとんどの人は気が付いていないだけで、すでにクローン人間が普通に共存して生活している世界であることを描くため、だったわけです。
ところでクローン人間というと、今いる自分が分身して全く同一のもう一人の自分が生まれる、と勘違いされがちですが、クローンとは正確には、
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「元の生物固体と同じ遺伝情報を持つ生物のこと」
で、自分のクローン人間を作った場合、今いる自分ではなく、同じ遺伝子情報を持つ赤ん坊が出来上がることになります。
人間の場合、生まれた後の要因、特に環境などによる後天的な影響で形作られるものが多いため、全く同じ人間ということには、まずならないといわれています。
映画の中でベンジャミンが何歳の娘を失ったかは、はっきりと語られていませんが、持っていた写真から、10歳前後であったと思われ、メイジーとそっくりの容姿をしている写真が登場するのでした。
が、メイジーの性格などが、どこまで亡くなった娘と同じであったのかは、わからないところです。
もしかすると、全然違う性格であった可能性もありえます。
とはいえ、このことに関しては、完全に映画のストーリーとは関係ないことなのですけどね。
クローン人間メイジーが恐竜たちを世界に放した理由
クローン人間のメイジーがそのままにしておけば死に絶えるしかなかった恐竜たちを解き放った理由。
映画の中では、「生物として生きている以上、生きなければいけないから」と語っていたメイジーですが、自身がクローン人間であることを知っていて、同じクローン生物の恐竜も生きる権利がある、という意味にしか取れません。
確かにクローン人間の彼女には、至極まっとうな理由かと思われますが、普通の人たちにとってみれば、たまったものではありません。
ティラノサウルスやヴェロキラプトルといった、人間にとってとても脅威になる恐竜と急に共存しないといけない、となったって迷惑以外の何でもありませんから。
どんなにクローン人間のメイジーの立場に立って考えてみたとしても、共感は絶対に感じることはできないのが当たり前だと思います。
ではなぜ、このようなストーリーにしたのでしょうか?
脚本を執筆した時点で、メイジーの恐竜を解き放つ行為について共感が得られないであろうことは絶対わかっていたはずです。
ハリウッドの映画産業に携わり、大ヒット作「ジュラシックパーク」シリーズから続く作品にかかわるスタッフともあろう人々が、それを分からずに、脚本を書き、映画を作成し続けることは、まずないでしょう。
となると、メイジーに恐竜を解き放たせる行動をさせたのは、別のメッセージがあると考えざるを得ません。
それは、
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「この世界は、気づいてないだけで、すでにクローン生物と共存をしている」
であり、
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「クローン生物の共存の準備をしておかないと手遅れになるよ」
ということではないでしょうか。
つまり、メイジーが恐竜を解き放った時、実は知らないだけでクローン生物とかかわっている、もしくは今後かかわる可能性があり、すぐにでもクローン生物と共存する準備をしておかないといけないよ、というメッセージと考えることができるのではないでしょうか。
逆に「クローン生物との共存の準備ができてないと、取り残されるよ」といいたいからこその、恐竜の開放だったのではないか、と思ったのでした。
考察のまとめ
僕自身もメイジーが恐竜を放ったシーンを見た時には、「おいおい!」と思ってしまいました。
今後「ジュラシックワールド」シリーズはどの方向へいくのか、不安になったことを覚えています。
が、「ジュラシックワールド」の主題をしっかり理解することで、あえてあそこで、大半の視聴者が納得しない、メイジーによる恐竜の解き放ち行動が、くっきりとわかるのでした。
あえてこの映画に苦言を呈したいとするならば、「ジュラシックワールド」のころから、主題が変わったよ、というメッセージをもう少しはっきりと示してほしかったかな、と思わずにはいられませんでした。
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