とんでもない人気を博し、興行収入記録を塗り替えた映画「鬼滅の刃・無限列車編」
そんな映画を漫画は一切読んでおらず、テレビアニメだけを見た状態で鑑賞しました。
その結果の感想は、正直に言うと「大騒ぎされている意味が分からない。」
全くつまらない駄作映画、とは思いませんが、「いまいち」を感じざるを得ませんでした。
そこでなぜそのように感じてしまったのか、その原因を考察してみたいと思います。
映画「鬼滅の刃・無限列車」はいまいちな内容?
日本全国で大騒ぎされ、中には2度も3度も映画館に通って視聴している人も多くいるほどの映画「鬼滅の刃・無限列車編」。
そんな人たちの中で、特に気になっていたコメントが、「毎回号泣してしまう」という部分でした。
そんなに感動的な話なんだ、とある意味期待きたのですが、いざ実際に鑑賞してみると、戸惑いのほうが大きかったです。
楽しむには楽しめました。
見ているのが苦痛でいつ終わるのか時計を何度も見た、というようなことはありません。
が、この展開で残り時間がこんなにもあってどうするのだろう、とストーリーの時間配分に戸惑い、時計を確認したことはありました。
おそらく、これが「世間で騒がれているほど面白いわけではない」と感じた理由なのでしょう。
理由、その1・話が2部構成
どうやら調べてみるとこの映画「鬼滅の刃・無限列車編」は連載にあるストーリーで、漫画の7巻8巻に当たる部分だそうです。
つまり映画のために用意された完全オリジナルストーリーというわけではありません。
ということは、映画で作られた作品であったとしても、オリジナルのストーリーを変更することはできないということです。
で、映画で扱われたストーリーは下弦の壱の鬼「魘夢」と上弦の参の鬼「猗窩座」の二人が登場するのですが、話としては別々のもの。
魘夢も猗窩座もお互いに協力していたわけでもなく、全くといっていいほど関連性はありません。
この二匹の鬼が登場したのは煉獄杏寿郎というキャラのため。
だからといって煉獄杏寿郎が魘夢との話でも猗窩座との話でもメインを張っていたのか、といえば、これも異なります。
あくまでも魘夢退治の話の際のメインキャラは炭治郎であり、煉獄杏寿郎はサポート役で出番でいえば嘴平伊之助よりも登場シーンは少なかったほどです。
つまり映画の中で魘夢退治の部分と猗窩座対決の部分に、一つの映画のストーリーとしての関連性はなく、別物の話となってしまっているのでした。
魘夢退治の後に続く猗窩座対決の話は、一つの話としていわゆる「起承転結」のどの部分にも当てはまらないのです。
連載漫画として一連の流れで、このような内容になっていることは理解できます。
が、一つの映画としてこの作品を見た時、魘夢が退治されためでたしめでたし、となっているところに何の関連もなく急に猗窩座と煉獄杏寿郎の対決シーンが始まってしまっては、「おいおい、いったい何が始まったの?」と戸惑ってしまうのは、避けられないと思いますし、実際僕にはそのように感じてしまったのでした。
理由、その2・無駄なギャグシーンに理不尽な反撃
映画の始めに妙にギャグシーンがたくさん入っていました。
これも漫画やアニメをすでに見ている人が見れば、その流れを汲んでいるのだな、と納得し、笑えもしたと思います。
しかし漫画やアニメを見ておらず、映画から入った人にとってはどのように映るでしょうか?
なぜ主人公たちが列車に乗っているのか、という状況がはっきりしない中で、いきなり笑ってくださいというギャグシーンを見せられても、戸惑ってしまうのではないでしょうか?
そういう視聴者にとって、ギャグシーンで笑えたとしても心のもやもやは消えずに残っていますし、あまりにどぎついと曳いてしまう可能性もあります。
更に話は進んでいき、心休まる夢を見させられている主人公他3人の鬼殺隊のなかで、炭治郎のみがおかしいことに気が付いて夢から目を覚ますのはこの映画のストーリーとしての見せ場でよかったと思います。
が、他3人が、どのような夢を見ていたかは分かったものの、そこからおかしさに気が付いて目を覚ます流れが省略されてしまっていました。
確かにそれをやっていては時間が足りない、という大人の事情は分かる気がします。
が、そこは説得力を持った理由付けを用意しておかないと、ご都合主義で起きたと感じさせてしまうだけではないでしょうか。
そしてそのことが一度気になってしまったとしたら、その後の戦闘シーンをいかに派手に見せたとしても、それを楽しみながらも納得のいかないわだかまりを心のどこかに抱えて続きを見ている視聴者は、心から楽しめないのではないことになってしまいます。
理由、その3・煉獄杏寿郎と猗窩座の決闘
先にも書きましたが、映画の内容は関連性の感じられない2部構成のストーリーになっていることは指摘しました。
だからこそ、煉獄杏寿郎と猗窩座の決闘シーンは蛇足とまではいきませんが、個人的に取って付けた感が感じられた、と思います。
そして煉獄杏寿郎と猗窩座の決闘シーンも映像的に迫力のあるものにしたいということであのような戦闘シーンになったのでしょう。
実際に迫力のある映像にはなっていました。
が、そんな中で思わず煉獄杏寿郎は鬼退治の目的をきちんと理解できているのか、と感じたのです。
「鬼滅の刃」において鬼を倒す方法は二つしかありません。
・1つは日輪刀で首を切り落とすこと。
・もう1つは日光を浴びせること。
であった場合、煉獄杏寿郎が最も簡単に猗窩座を倒す方法は日光を浴びせることでしょう。
そしてそのことを第一目標にして猗窩座との戦闘を運んでいくのが最適な状況です。
その過程で運よく相手の首を切れるような状況ができたら、その時は首を落とすといういうことにしておけばよかったのではないでしょうか。
が、実際は煉獄杏寿郎は真っ向から剣術を挑んでいっています。
しかもいくら切りつけたとしても猗窩座は強い再生能力があり一行にダメージを与えることができないでいました。
さらに言えば再生能力が早すぎて、例えば手足を切り飛ばしてもそれが戦況の中で煉獄杏寿郎の有利にはまったくなりません。
そしてついには猗窩座の攻撃が当たり、負傷していくのです。
いかにド派手な炎ノ型の剣技を繰り出しても、全く猗窩座には効きません。
それよりも反撃を食らう結果になってしまい、剣技を出してことで逆に不利になってしまっています。
煉獄杏寿郎のすべきは日の出の時間までの時間稼ぎであった、つまり鬼を退治するという一番大切な任務に集中すべきであったのではないでしょうか?
なののに、猗窩座を切り倒すことに固執したように感じてしまったのです。
挙句の果てに命を落としてしまい、相打ちを狙ったものの、猗窩座に逃げられてしまうという結末。
何の手助けもできない炭治郎が、自身の非力さを悔い、猗窩座の卑怯さを絶叫させて感動的なシーンを作り上げようとしても、日の出までそれほど時間がかからない時刻に鬼が姿を現したという相手のミスを、有効に利用できない作戦ミスが原因ではないか、と冷めて見てしまうことになったのでした。
映画だけしか見ていない人には今一つなのでは…
アニメを見続けた人がその流れで映画館の大スクリーンと大音響で視聴すれば、その迫力から満足度は高くなるでしょう。
さらに漫画をすでに読んでいる人には、漫画では見ることのできない美しい映像により感動したと思います。
が、この映画しか「鬼滅の刃」に触れなかった人には、ちょっと置いていかれた感を感じずにはいられないのではないでしょうか?
まぁ、逆にそれまでの話が気になって、アニメや漫画を見返すきっかけになったのかもしれません。
それがこの空前の「鬼滅の刃」ブームになったのかも。
いまいちと感じた考察のまとめ
映画「鬼滅の刃・無限列車編」はそれなりに楽しめた映画でした。
が僕にとっては、巷でいわれているほど、何度も見に行きたいと思えるものではなく、また感動で毎回涙を流さずにはいられないというわけでもありませんでした。
逆にそんな世間の声が、不必要に期待を高めたのかもしれません。
そして実際に見て感じた際に、なぜそんな評価をしているのだろう、と疑問に思い、それが「いまいち」という感情につながったのかもしれません。
どんな映画にしろ、すべての人が面白い最高傑作、という感想を持つわけではありません。
僕にとっては「鬼滅の刃・無限列車編」は楽しく視聴した部分も多かったものの、見終わった感想は「いまいち」であり、世間で絶賛されている「ほどではない」というものでした。
そしてその理由は、「一つの映画としてまとまっていなかったこと」にあり、そのことが気になって映画のストーリーにのめりこむことができなかったから、と結論付けたのです。
コメント
私はそこまで分析はしておりませんが
いまいち、ほどではない、は同感します
泣してしまう事もなく、さほど感動もしませんでした