映画「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」は1868年にルイーザ・メイ・オルコットが発表した小説「若草物語」をもとに、監督のグレタ・ガーウィグが脚本も担当して映画化した作品です。
世界で一番読まれている小説の一つといっていい「若草物語」
これまで映画はもちろん、舞台やテレビドラマ、アニメーションにまで作品として何度も扱われているお話を、あえてグレタ・ガーウィグが独自の解釈を交えて映画化したのでした。
そんなグレタ版「若草物語」といっていい、本作品のエンディングですが、原作の小説を忠実に再現しているように見えて、実は原作とは違うエンディングを用意したようにも見えたのです。
今回は、そんな「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」のエンディングについて考察して、僕が個人的に感じたことを紹介していくことにしましょう。
映画「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」のエンディングおさらい
考察するに際して、映画「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」のエンディングをもう一度おさらいしておきましょう。
故郷に戻ってきて以来、全くお話が書けなくなっていたジョーでしたが、かつての4人姉妹が仲良く過ごしていた屋根裏部屋に、ジョー一人だけとなってしまい、寂しい孤独感に襲われていました。
そんな中、亡くなったベスに進められていた執筆の再開を決意し、寝る間も惜しんで話を書き上げます。
書いているものがある程度の形になったころ、ニューヨークで下宿先で一緒に住んでいたフリードリヒがジョーのもとに訪ねてくるのでした。
カリフォルニアに仕事で移ることになったフリードリヒは、引っ越す前にジョーに会いにやってきたのです。
家族全員でフリードリヒを歓迎し、楽しい時間を過ごすことができました。
やがて夜になり、フリードリヒはジョーの家を去って駅へと向かいます。
何も特別なことは伝えないジョーに、フリードリヒがいなくなってから、家族全員がジョーに追いかけるように進言します。
特に姉のメグと妹のエイミーが強く勧め、エイミーの夫のローリーが馬車を用意して3人で追いかけることになるのでした。
駅にたどり着き、二人の応援を受け、ジョーはフリードリヒを探しに駅構内に向かいます。
そこで、急に場面が変わり、ジョーは出版社でダッシュウッドとジョーの書いた小説のエンディングについて話しているシーンになります。
ダッシュウッドはジョーに、「主人公は二人のどちらとも、結婚しないのか?」と信じられないように問いただし、ジョーは「結婚しない」と平然と答えるのでした。
が、ダッシュウッドはどちらかと結婚しないと小説が売れない、と力説し、ジョーも不本意ながらその意見を採用するかのように二人の会話は進んでいきます。
その後、場面が駅のシーンに戻り、ジョーはフリードリヒと再会して、フリードリヒにカリフォルニア行きをあきらめて一緒にいてほしいと懇願します。
フリードリヒはジョーのその言葉を待っており、ジョーに会いに来た理由は、カリフォルニア行きを断る理由をジョーが与えてくれることを期待していたからでした。
数年後、ジョーは望んでいた通り、学校を開き、家族全員がそこで子供たちに自分のしたかったこと、メグは演劇を、エイミーは絵画を教えているのでした。
駅でフリードリヒで話したシーンは現実?物語の話?
原作の小説でも「ジョーはフリードリヒと結婚し、幸せに暮らしました。」ということで終わっています。
ですので、映画のエンディングも原作を忠実に再現していて、何ら問題はないように見えます。
が、駅へフリードリヒを追いかけていったジョー達が、駅に着いた後、フリードリヒと再会して告白をするシーンの間に、ジョーが出版社でジョーの書いた小説について話し合いをしているシーンが挟まっていることに、違和感を感じずにはいられませんでした。
そこで、このような疑問が生まれたのです。
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出版社でダッシュウッドとジョーが話し合った後のシーンは、ジョーが出版した本のエンディングを再現しているだけで、実際にジョーとフリードリヒの間に起こったこととは違うのではないか?
でなければ、わざわざ出版社で小説の内容について話し合っているシーンが、あのタイミングで挟まれるストーリー展開にしないのではないか?と思ったのです。
つまり、実際の起きた出来事はこうです。
「ジョーは駅へ行った」でしょうし、「フリードリヒにも会えた」のでしょう。
そして、ジョーはフリードリヒにカリフォルニアへ行かないでほしいといったでしょう。
が、ジョーが考える価値観、
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「女性の幸福は結婚することだけにある」とは違う幸福が他にもある
という考えに、フリードリヒが賛同できるかどうかはっきりしない限り、「結婚」という決断はジョーにはできないと思うから、駅で追いついた時点で結婚をジョーのほうから申し込むという展開は不自然だと思ったのです。
映画の最後に映し出されるジョーが作り上げた学校のシーン。
両親や姉のメグ、妹のエイミー、そしてそれぞれの夫であるジョンとローリーが子供たちと一緒に過ごしている姿が映し出されます。
その中にフリードリヒの姿もあり、ジョーとともに過ごしていることが察せられるのでした。
が、二人が結婚したかどうか、はっきりといえるものは何も映し出されていません。
時代的に、年頃の男女が一緒にいるということは二人は結婚しているということになるのでしょうが、ジョー自身が時代に合っていない女性であることから、結婚して夫婦にならなければいけない、という常識に縛られていないいと考えてもおかしくはないと思います。
であれば、いわゆる同棲、パートナーという関係のままでいる可能性も有りではないでしょうか。
特に金持ちのマーチ叔母は金持ちがゆえに結婚しませんでしたし、エイミーがローリーに言った、この時代の女性の財産権、結婚すれば女性の財産は夫のものになる、という常識が当たり前だったので、小説で財産を成したジョーにとって旦那という存在は、経済的にみれば、あまりうれしい存在ではないことも、2人が結婚しなかったのではないか、という考えの後押しになると思ったのです。
監督グレタ・ガーウィグが考えるジョーという女性像
そして、ジョーがフリードリヒと結婚していない可能性があるという展開の想像を膨らませる大きな根拠の一つが、監督グレタ・ガーウィグがとらえている「若草物語」という作品像でした。
「若草物語」の作者、ルイーザ・メイ・オルコットは、生涯結婚せず、小説を書き続けた女性作家です。
作者のルイーザ自身をジョーのモデルにしていることは有名な話で、だからこそ、自分のように結婚しないエンディングを考えていたのではないか、と思っているそうです。
しかし映画の中でジョーがされたように、ルイーザは出版社からの強い要望で、小説の中で最後にジョーとフリードリヒを結びつけているのでした。
監督は、「若草物語」の中でジョーはルイーザ自身であり、ルイーザが生涯独身で貫いたという事実から、ジョーも結婚をしないという物語の終わり方にしたかったのだろう、と強く信じているそうです。
だからこそ、監督は映画のエンディングで、素直に見れば、原作に忠実にジョーがフリードリヒと結ばれたように見せたかったのだと思います。
そしてその裏では、密かに実は二人が結婚という制度で結ばれていないのではないか、と見て取ることもできるようなストーリー展開にして、ルイーザが望んだ「結婚を選ばなくても幸せに暮らしたジョーが実はいたのだ」という裏読みができるようなエンディング編集にしたのだと思ったのでした。
考察のまとめ
監督グレタ・ガーウィグはいくつものインタビューで、作者のルイーザはエンディングで
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「ジョーは結婚して幸せに暮らしましたとさ」
で終わらせているのはおかしい、と主張しています。
ルイーザ自身が結婚せず独身と通し、「若草物語」で築いた富で家族を養ったのでした。
そんな彼女自身がモデルとした描かれたジョーが、小説の終わりで男性と結婚したことで幸せに暮らしました、では、確かに納得のいかないというか、作者の主張とかみ合っていない終わり方となってしまいます。
とはいえ、原作ではジョーはフリードリヒと結婚し子供まで生まれていますので、そのことを映画の中で変えることは、たとえできたとしても原作物の映画としてリスクが高いでしょう。
ですので、映画のエンディングのように、一見すると原作に忠実でありながら、実はどちらともとれるような構成にしたのではないか、と思ったのでした。
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