映画「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」は世界的有名な1868年発表の小説「若草物語」を映画化したものです。
これまで7本の映画化をはじめ、舞台やテレビドラマなどで扱われましたが、それぞれの作品は、その時代の社会的な背景などの影響を受け、監督や脚本家のアレンジが加えられています。
もちろん今回の映画「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」も監督で脚本も手掛けたグレタ・ガーウィグによってアレンジや変更が加えられているのでした。
今回は映画と原作の違う点を紹介しようとまとめてみました。
また可能な限り、グレタ・ガーウィグが変更した理由も併せていきたいと思います。
映画「ストーリーオブマイライフわたしの若草物語」と原作の違い
大きく分けて6点の原作からのアレンジが見つけられると思います。
それでは一つ一つ、見ていくことにしましょう。
大人になった4姉妹の話から始まるストーリーライン
原作では4姉妹が母親と一緒に住んでいる時点から時系列に進んでいきます。
が、映画ではメグは結婚して家を出、ジョーはすでにニューヨークに一人で住んでおり、エイミーはマーチ叔母さんとフランスにいる時点から始まります。
そして過去を回想する方法で、子供のころの出来事が映像化されるのでした。
この理由について監督は、
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・映画として使える限られた上映時間
・限られた撮影スケジュール
・扱わないといけないタイムラインが10年
ということから、時間軸順に順々に撮影し、編集して映画作品にすることは、不可能であるという判断をせざるを得なかった、とインタビューで答えています。
一方で、子供のころの出来事を回想という形でストーリーに挿入していくことで、各キャラクターの性格がどういう出来事が影響したことで形成されていったのかが分かる上、リアルタイムで起こっていないため、変な第一印象を受けずに済むというメリットが生まれたのでした。
具体的に言えばエイミーというキャラクター。
ともすると、末っ子でわがままで自由奔放すぎるところに悪役的な印象を持ってしまう可能性がありましたが、回想風にそのころのエイミーが映し出されることで、大人のエイミーが芯が強く、現実的で自立している性格が、際立ったと感じました。
ベスの死に様
4姉妹の中で物静かで、悪く言えば影の薄いベス。
小説でも彼女の死がジョーに与えた影響は強く、それがなければ「若草物語」は執筆されなかったかもしれないほどの重要なイベントでしたが、ベスのその死の扱われ方は具体的な描写はないほど、ひっそりと亡くなっていたのでした。
その部分だけを見ると、ベスの扱われ方は小説も映画もあまり変わりないといえるのですが、唯一異なるのは、その死が暗示されるような他のキャラのアクションがあったかどうか、です。
小説では、発病したことも、亡くなったこともきちんと描写されておらず、本当にひっそりと亡くなった、という印象を受けます。
映画のほうは、ベスの病気を理由に、ジョーがニューヨークを引き払って故郷に帰っており、この時点からベスの病がかなり深刻であることが感じられたのでした。
このジョーの行動で、そこまで重大な状況であることが感じ取れてしまい、小説では持てた希望は、映画では全く持てないような演出になっていたのです。
だからこそ、一度ベスが回復し、父親が戦争から戻ってきた際に、再会できたシーンは、よりうれしい気持ちになれたのだと思いました。
マーチ一家の経済状況
ジョンと結婚したメグが貧乏のせいで服も新調できない、貧乏に疲れた、と責めるシーンがありました。
このシーンを見た時に、かなり違和感を感じたことを今でも覚えています。
というのも、そういうことを言ったのはメグだけで、ジョーもベスもエイミーも貧しさでひもじい思いをした、というようなコメントも無ければしぐさも見られなかったからです。
実はこれ、小説ではマーチ一家は経済的に裕福であったものの、その後つつましい生活をしていかないと立ち行かなくなってしまったという過去があったから、でした。
そして長女のメグは、唯一裕福であった時の記憶を姉妹の中で持っている、という設定。
そのため上流階級や美しい衣服、装飾品に憧れを持っていたのです。
ところが、その部分の説明を、映画ではきちんとしていないため、僕のように原作に詳しくないと、違和感を覚えてしまうのでした。
歴史的背景の描写
4姉妹の父親は南北戦争に従軍していて家にいません。
その説明はありますが、家族は父親の心配はするものの、戦争の行方は話題にすることはありません。
南北戦争は黒人奴隷の開放の是非を左右するものであり、戦争の如何によっては黒人への扱いが変わる、というような、とても需要な転機を向かえることになるのです。
マーチ家で話題に上らないとしても他のシーン、特にローリーの家族のような上流階級の人々が集えば、話題に上がらないわけがないと思うのが、リアリティではないでしょうか。
ただし、この問題をも映画の中に含めてしまうと、女性問題だけにスポットを当てることがむつかしくなり、まとまりもかける感じになるのでは、と心配されました。
おそらくその点を、製作スタッフによって考慮され、今回の映画では触れないようにされたのではないか、と思います。
ジョーの結婚相手フリードリヒ
ジョーの結婚相手であるフリードリヒ・ベア。
実は小説版のフリードリヒはもっと年齢のいったドイツ系の男性でした。
そのため、エンディングで結婚はするものの、二人の愛はどちらかというと先生と生徒の、兄と妹のような雰囲気といいますか、年上のフリードリヒが小説家として成功したいジョーを技術面を含めてサポートすることからはぐくまれます。
一方で、映画のフリードリヒは、これを演じている俳優はフランス人のルイ・ガレル。
若くてハンサムなフリードリヒ、という評価が北米では大半を占めています。
ハンサムかどうかは個人的な主観が入るため、「その通り」と納得される方も、「ちょっとタイプじゃない」と思われる方もいらっしゃるとは思いますが。
この変更に対しては監督のグレタ・ガーウィグがインタビューでこう、はっきりと答えています。
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この映画の監督は私。
だから映画の内容をどのように変更するのも私の好みでいくらでもできる(笑)。
とまぁ、かなり冗談も交えた返事のようですが、原作に比べれば、格段に若いフランス人俳優を起用したのは、監督の好みから、ということになるみたいです。
エンディング
映画「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」で一番原作との違いが出ているのは、確実にエンディングでしょう。
というもの、監督のグレタ・ガーウィグがこの作品を撮影すると決めた大きな動機の一つが、160年も前の小説でありながら、現代に通じるフェミニズムがとても強く感じられたから、でした。
1860年代に比べれば、2020年の今は、より女性の権利が保障されていますが、それでも1860年のころからほとんど変わっていない女性の立場もあります。
特に、
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結婚が女性の幸せには不可欠
という考えや、その考えに基づいて決められている税制上の優遇制度などは、いまだに「結婚」と「女性」をセットにして縛り付けているものといえるでしょう。
さらに小説「若草物語」の作者であるルイーザ・メイ・オルコット自身は生涯結婚せずに過ごしました。
小説のコピーライトを映画で描写されたように、自分自身で保有し、その印税で結婚しなくても家族を養っていけるだけの収入を得たから、です。
ジョーはルイーザ自身をモデルにしているキャラクターですので、本来は小説でもジョーを結婚させたくはなかった、と監督は解釈しています。
そして小説の出版に当たって、編集者との間で売りやすい小説にするために必要な「ジョーの結婚」を含めるかどうかのせめぎあいのシーンを、映画には加えたのでした。
さらに映画のエンディングでは、一見ジョーは小説同様、フリードリヒと結ばれたように見えながら、深読みすると、実はそうではないようにも解釈することができるような、構成になっているのも、監督は狙ってわざとそうしたと思えたのです。
関連記事:「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」のエンディングでジョーは本当に結婚した?
まとめ
映画「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」と原作小説「若草物語」の内容の違いをまとめてみました。
小説は時代順に計4冊の小説となっていますが、映画はそのうちの始め2冊を扱っています。
映画という時間制限が大きいメディアであるため、2冊分の小説の内容を詰め込み、そして監督が表現したい映像や主張をも盛り込まないといけないため、小説版と内容を変えざるを得ない部分や省略しないといけない部分が、どうしても出てきてしまったのでした。
とはいえ、やはりメディアとして小説と映画の違いがある以上、例えば舞台となった時代の大きな出来事があまり主人公姉妹と関係がないことから、省いたのは、よい選択だったと思います。
それによって、より純粋に女性問題、生活していくことと恋愛についての、それぞれの姉妹の考え方の違いがくっきりと描かれていたと思うのです。
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