映画「アメイジング・ジャーニー神の小屋より」はウィリアム・ポール・ヤングというカナダ人の作家が自身の子供達のために書いた本をもとにして作られた映画です。
その本は家族と友人へのプレゼントとして15部しか作りませんでしたが、彼の友人二人があまりの出来に、ぜひ出版すべきだと勧めたため、そのために加筆などをしたものを出版社へ持ち込みます。
しかし26社に断られる結果に終わりましたが、諦めなかったウィリアムは友人と一緒に出版会社を作って2007年に自費出版をします。
本の宣伝にかけた費用は200カナダドルでしたが、口コミで評判が広がり、遂に2008年の6月にニューヨークタイムスでベストセラーブックの1位となり、同年の11月30日まで大人向けフィクション部門でトップセラーとなりました。
そんな本を題材にした映画ですが、話は幸せな家庭を築いていた男性と家族に突然不幸が訪れ、そこから再び幸せを取り戻すまでを見せてくれます。
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キャストの紹介
マッケンジー・フィリップス: サム・ワーシントン
妻と子供3人の家族を持って幸せに暮らしていたが、娘の失踪を期に失意の底に落ちてしまう。
神 女性の姿: オクタヴィア・スペンサー
神 男性の姿: グラハム・グリーン
イエス・キリスト: アヴィヴ・アルーシュ
サユラー(精霊): すみれ
哀しみの中で暮らすマッケンジーを救うために神とキリスト、精霊は朽ち果てた小屋へ彼を招待する。
映画「アメイジングジャーニー 神の小屋より」のネタバレあらすじ
マッケンジー(マック)の父親はアル中で自身の妻を虐待し、その暴力はマックにも向けられていました。
その虐待に耐えきれなくなったマックは、父親をストリキニーネで毒殺します。
大人になったマックは敬虔なキリスト教徒として妻のナン、長男のジョシュ、長女のケイト、次女のミシーの4人と幸せに暮らしていました。
ある夏、子供達とキャンプへ訪れたマックでしたが、ジョシュとケイトが湖でボートを転覆させてしまったのを救助している最中に、ミシーがいなくなってしまうという悲劇に見舞われます。
地元の警察、FBIなども巻き込んでの捜索が開始されますが、それはこのあたりで5人の幼女が行方不明になっている事件が起こっていたためでした。
森の奥で朽ち果てた小屋が見つかり、そこから血の付いたミシーが着ていた服が発見されるに及んで、殺人事件として捜査が開始されましたが、結局ミシーの遺体も見つからず、マックとナンはミシーの葬儀を出すのでした。
それ以来、マックは哀しみの中で生活しており、その影響は家族にも出ていました。
特にケイトはボートを転覆させる原因の悪ふざけをしていたため、その責任を感じて自らを責めていたからです。
ある冬の日、マックは郵便受けに差出人の記載のない手紙を見つけます。
雪の上には足跡がなく、手紙には「次の週末、あの小屋で待っている 神より」と書かれていました。
もしかするとミシーを誘拐した犯人に復讐できるかもしれないと、小屋へ行く決心をしたマックですが、道中、いろいろなことを考えながら運転していたこともあり、キャンプ地の近くで一時停止のサインを見落としてトラックとぶつかりそうになります。
なんとか事故になることを避け、雪に埋まるキャンプ地から朽ち果てた小屋を、銃を片手に目指しますが、小屋の中には誰もおらず、誰も現れません。
復讐だけを考えていたマックの張り詰めていた糸は切れてしまい、持っていた銃を自身に向けようとします。
その時、物音が外から聞こえ、マックは慌てて銃を向けますが、それは野生の鹿がたてた物音でした。
それに気づいたマックは気が抜けたように床にへたり込んでしまいます。
しばらくして小屋を後にし、車へ戻ろうと森の中を歩いていたマックは、前方から誰かがやってくることに気がつきます。
物陰に身を隠し、その人物をやり過ごして銃を構えますが、相手はマックに気がついており、銃を向けられていることもお構いなく、穏やかな口調で、マックを待っていたことを伝えます。
そしてマックについてくるように言って、再び歩き出すのでした。
男性について森の中を歩いていると、雪が消え、夏の森が広がり、朽ち果てた小屋があった場所には立派な山荘が立っているのでした。
男性はその山荘の中に入っていき、続いたマックは中に黒人の女性とアジア系の若い女性がいることに気がつきます。
困惑するマックを歓迎する3人はそれぞれ自己紹介し、黒人女性は神、男性がイエス・
キリスト、アジア系の女性が精霊であるといいます。
彼らは哀しみの中にいるマックを救うために、彼を招待したのだと告げるのでした。
3人はマックが悲しみにとらわれている原因を一つ一つ解きほぐしていきます。
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ミシーを助けられなかったという後悔。
自身の基準で他人を判断する心。
残された家族に気が回らず、彼らを苦しめている事。
子供の頃、毒殺してしまった父親への罪の意識。
ミシーの死の原因である殺人犯を許すこと。
それらを苦しみながらも3人の助けを得て、少しずつ乗り越え、安心して家族のもとに帰ることを選ぶマックでした。
ふと気がつくと、朽ち果てた小屋の床にへたり込んでいた事に気がつきます。
何が起こったのか、経験してきたことは夢だったのか、気持ちの整理がつかないまま、車に戻ったマックでした。
車を運転して家に戻る途中のようなシーンが流れますが、一時停止に気づかずにトラックとぶつかりそうになる、キャンプ地へ向かう前に起こったのと同じシーンが流れます。
しかし今回はトラックを避けきれず、車がぶつかる音が響き、スクリーンは真っ暗になるのでした。
気がついたマックは病院のベッドにねかされていました。
事情を説明されましたが、キャンプ地へ向かう途中、トラックと交通事故を起こし、数日間意識不明のままだったそうです。
マックが気がついたことで家族が部屋に呼ばれます。
マックはナン、ジョシュ、そしてケイトにこれまでのことを謝罪し、特にケイトに、自分が悲しみにとらわれていて、ケイトの哀しみに気がついてあげられなかったこと、そして彼女の手助けをしてやれなかったことを謝ります。
これからは二人で悲しみを乗り越えていこうと約束し、絆を再び取り戻すのでした。
その後、マックはあっという間に回復し、退院します。
家族との絆を取り戻し、幸せな生活をまた感じられるようになるのでした。
映画「アメイジングジャーニー 神の小屋より」のネタバレ感想 1 キリスト教には詳しくないけど
キリスト教徒が書いたキリスト教の教えを元にしたお話ですが、僕の知識は全てを理解するにはあまりにも足りないので、全く解説などはできません。申し訳ないです。
一方で僕自身、神様について、こうではないかと思うことが有りますので、その思いをベースに感想を書いていきたいと思います。
フィクションでは有りますが、かわいいざかりの子供が突然さらわれ、遺体すら発見されないという状況は想像するに、あまりにも酷い不幸です。
僕がそんな不幸が降り掛かったら立ち直れるかどうか、わかりません。
しかし、生きていく以上、どんなにつらい過去でもそれに固執して生きていくより、今や未来に向かって生きていくことのほうがとても重要です。
特にマックのように残された家族がいますので、いつまでも死んだ娘のことにとらわれて廃人のようになってしまっては、他の家族が忘れたくても忘れられなくなってしまいます。
起こった不幸に対して、自分を責めたり、なぜ不幸が訪れたのかを考えたり、不幸にした神を恨むのは、不幸にとらわれることになってしまいます。
この「とらわれる」ということは、不幸自体よりももっと質が悪く、ともすれば一瞬で終わる不幸を、自分自身で長々と繰り返し自分に対して起こしているといえるのではないでしょうか。
この映画は多分にキリスト教的では有りますが、自分自身で陥っている「とらわれる」行為から、如何に救出されるか、そしてどれだけ重要かを訴えているように感じました。
映画「アメイジングジャーニー 神の小屋より」のネタバレ感想 2 殺人犯を「許す」という行為
マックに課せられた最後の試練として殺人犯を許すようにと神はいいます。
ここでいう「許す」という行為は、単純な意味での「許す」ではないのではないかと思いました。
確かに自分の娘を殺した相手、しかも事故ではなく、殺そうと思って殺した確信犯を許すということは、ほぼ不可能だと思います。
少なくとも自分にはできそうにもありません。
そこで、この「許す」という行為は一体どういったものだろうと考えてみました。
すると、どうやら僕が思っていた「許す」という行為に対してもう一つ意味があるのではないのではないかと思えてきたのです。
例えば、犯人が捕まるとします。
当然、犯した罪に対しての罰が与えられ、極刑が課せられる可能性もあります。
しかし犯人が死刑で死んだとしても、復讐ができたと満足ができるでしょうか?
僕はそうは思いません。たとえ犯人が罰を受けて死んでも、もっと言えば復讐として自身の手で恨みを晴らしたところで、絶対に満足はしないでしょうし、娘を殺されたことに対する怒りはなくなることがないと思います。
そうなると、怒りを感じるのは普通の感情として持って当然です。悪いことではありません。
が、そのことに「とらわれすぎる」と自分自身にとってマイナスでしかないことになると思うのです。
ですから「許す」という行為で、自身を解き放つことが重要なのではないでしょうか?
「諦め」るのではありません。
「納得」というと語弊が出てしまいますが、どちらかと言うとそれに近い心境になることで、過去にとらわれない生活を取り戻すことにつながるのでは、と思うのです。
「神は計算しない、計算するのは人間だ」
神様のことや宗教のことを考えるとき、僕はこの「神は計算しない、計算するのは人間だ」という言葉がとても気に入っています。
僕の神様感というのは、神様は起こす現象について、これをすれば誰にはメリットが有るけど、誰にはデメリットになるな、ということは一切考えていないと思うからです。
たとえば、仕事で渋滞に巻き込まれて時間通りに到着できなかった場合、渋滞に巻き込まれたことについて不幸だと感じるでしょう。
ところが、もし待ち合わせの場所で火事が起こったとして、渋滞のせいでその場に居合わせることを避けられたとしたら、渋滞に巻き込まれたことは幸運になります。
どちらも渋滞に巻き込まれたことには変わりありませんが、それ以外のことで人にとっては幸運にも不運にもなるわけです。
中国の故事で似たような話があります。
「人間万事塞翁が馬」というものです。
せっかくですので簡単に話を紹介しましょう。
塞翁という老人のもとにある日野生の馬がやってきます。
ただで馬を手に入れた塞翁の幸運に人々は羨ましがりますが、塞翁はこれは不幸の前兆だ、と言います。
塞翁が心配したとおり、その馬に乗っていた息子が落馬して骨折をしてしまいます。
人々は馬を疫病神だと噂します。
しかし塞翁は、これは幸運の前兆だといいました。
しばらくして戦が始まり、村の若者は兵隊として取られてしまいましたが、塞翁の息子は骨折していたため、戦に参加せずに済み、多くの若者が命を落としましたが、彼は戦死を免れることができました。
このような話です。
ある意味、起こった事柄が幸か不幸かは人の気持ちの持ち方一つだ、という教訓ですが、宗教もこれに当てはまるのではないか、と思っています。
個人レベルで神を信じ、神様がいつも見守ってくれている、いつも正しい道を指し示してくれて、不幸を寄せ付けないでいてくれる、と信じれれば、新しいことを試すのにも根拠のない安心感から変なプレッシャーを感じずにうまくいくのかもしれません。
また、今日は辛くとも明日はより良い日が神様が与えてくれるはずだ、と信じれれば、希望を持って生きていくことができます。
この「希望」というものは明日を生きる為にとても重要なもので、「希望」を感じられずに生きていかなければならないければ、生きている価値もないと思えるほどです。
この「希望」を与えることができる点だけを考えても、宗教の重要性はあると思ったのでした。
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