映画「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」はアメリカの貧困白人のシングルマザーの家庭に生まれた少年が、その境遇にあきらめることなく、家族のサポートを受けて成功を掴み取るというストーリーです。
一番印象に残っているのは、主人公であるJDの祖母ボニーを演じるグレン・クローズの演技力。
とんでもない肝っ玉ばあちゃんを見事に表現していました。
毒親であるベヴを演じるエイミー・アダムスもよかったです。
毒親ぶりを見事に表現しているので、演技力が高ければ高いほど、逆に嫌な気になってしまうのが流石ですよね。
アメリカの抱える闇と今なお存在するアメリカンドリームを見せつけてくれましたが、原作を調べてみると、どうやら原作ほどアメリカにはびこる問題に立ち入ることはなく、お涙頂戴 & ハッピーエンドファミリーストーリーになってしまったことに批判が出ているようです。
映画「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」のネタバレ
究極のネタバレを言ってしまうと、タイトルにある「ヒルビリー」は、映画でほとんど触れられず、ラストベルト地帯の多くの貧困白人が抱える問題だけを取り上げているだけです。
「ヒルビリー」とはアメリカ中南部アパラチア山脈地方の人たちのことを指します。
「山人、山の地方の人」といった意味で「ヒルビリー」と言われました。
しかし映画で登場するヒルビリーは冒頭の数分だけ。
祖母ボニーの故郷であるケンタッキー州に住む人々が「ヒルビリー」であり、オハイオ州の田舎町に住む貧困白人たちのことを指す呼び名ではありません。
そして映画の内容としてはラストベルトという閉鎖された工場が多く残る、アメリカ合衆国の中西部地域と大西洋岸中部地域の一部に広がる脱工業化が進んでいる地帯で、貧困にあえぐ家族から自分の努力と家族の助けで抜け出すことのできた主人公の話なのです。
こちらがそのラストベルトです。
そういう意味ではタイトルが内容に合っていない映画になってしまっていて、アメリカ本国でも、その点から低い評価も受けている映画になっているそうです。
具体的なストーリーはといえば、貧困層の白人の少年が、薬物依存になった母親に振り回されて、自分自身も貧しい暮らしから抜け出せないような環境にいたものの、祖母の助けによって改心します。
そこからきちんと教育を受け、高校を卒業。
軍隊に入隊してイラクにも従軍し、除隊後にオハイオ州立大学、そして名門のイェール大学のロースクールで法務博士の学位を取得するほどの成功を収めるという流れです。
そんな中で幼いころに体験した母親との壮絶な体験や、イェール大学を続けることがむつかしい経済的ピンチに母親が原因の家族問題も重なるというハラハラドキドキの展開も加わってきます。
原作は自叙伝として出版されてベストセラーになりましたし、映画化されているので大学を続けられなくなるかもしれない危機も無事に乗り越えているのですが、つまり、今JDが成功しているからこそ、話として取り上げられて映画化もされるのですよね、とうがった見方もしてしまうことも。
とまぁ、ここら辺は映画についての感想になるので、次で詳しく紹介していくことにします。
映画「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」の感想
ここから映画「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」を視聴しての感想を紹介していきます。
JDの成功がすごいので共感が乏しい
確かに映画「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」ストーリーは衝撃的で、ここまでの毒親の母を持ちながら、よくも成功できたものだと感心してしまいます。
が、ちょっとひねくれて考えみると、JDが成功したから彼のお話は美談として映画化されるまでになったわけですが、JDと同じような努力をしてもう少しで成功するかも、というところで家族の問題のせいで、成功をつかみ取れなかった人々もいるのではないか、と。
つまり、JDだから成功したのであって、誰でも同じような成功を収めることができるのだ、というメッセージ性には乏しいように感じたのでした。
別の視点で見てみると、JDのお姉さんであるリンジーのほうが、負の連鎖を断ち切ることのできた成功例としたほうが、より親近感が得られそうではないでしょうか。
リンジーは結婚した旦那と22年以上、添い遂げていますし、3人の子供も素行が悪いようには描写されていませんでした。
家庭内暴力もなさそうですし、薬物依存にもなっていません。
大成功した、とはいえませんが、弟であるJDの成功にも一役以上買っているように思えますので、一般視聴者からの共感がより得やすいのではないでしょうか。
JDの姉、リンジーの家族愛に脱帽
このお姉さん役を演じているのはヘンリー・ベネット。
映画「スワロウ」で主演を演じ、高い評価を受けている女優です。
自分の家族を持っているため、自分たちを守るために母親を遠ざけなければいけない一方、JDですらあきらめたくなるどうしようもない母親を見捨てることなくサポートしている家族愛は、素晴らしいの一言です。
僕であれば、正直、自分の子供たちに悪影響しか与えない存在として縁を切ってしまう方を選バざるを得ない、とおもうのですが。
リンジーだけでは抱えきれないほど問題が大きくなってしまったことで、JDに不満を言って助けを求めます。
だからと言ってJDの成功へのチャンスも十分理解し、リンジー自身が我慢を続けることを選択します。
このことはJDも痛いほど理解しているからこそ、失敗できないと頑張るわけで、ほぼ不眠不休で車を飛ばし、母親の世話をした後、また長距離運転で翌朝10時の最終面接に臨むというとんでもないハードスケジュールをこなすのでした。
どうしても主人公のJD、そして彼を振り回す毒母のベヴ、さらに肝っ玉ばあちゃんのボニーのキャラクターが際立っているため、姉リンジーのシーンであったり、彼女の内面を表すようなエピソードなどもないのが残念だと感じました。
もう少し、リンジー目線で家族のとらえ方だとか、JDに対する思いみたいなものもあってもよかったのかな、と思います。
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可哀そうな毒親ベヴ
薬物依存症で情緒不安定。
結婚と離婚を繰り返し、些細なワードにブチ切れて、暴力は振るうは、命の危険性も感じるとんでも行為をするは。
そんなぶっ飛んでいるを通り越してぶっ壊れているとしか思えないベヴですが、やはり幼いころから家庭内で繰り広げられていたDVによっておかしくなってしまったのでしょう。
また、シングルマザーでありながら看護師の資格もとっていますので、頭はいいのでしょうが、メンタル的に落ち込んだ時に何かに逃げ出してしまう性格が、薬物に手を出させたと思います。
ベヴの父親、ボニーの夫であるバンスが亡くなってからのベヴの取り乱し方をみてみると、ベヴにとって父親のバンスは心のよりどころだったのでしょう。
実際にどのような絆が二人の間にあったのかは、映画では描かれていませんでしたが、ベヴがどんどんと壊れいき、薬物から離れられなくなって、ついには麻薬にまで手を出すようになった遠因が、ここにあったのだと思います。
ある意味、ベヴは常に寂しいのでしょう。
薬物の過剰摂取で病院に運ばれた時、JDが返ってきたにもかかわらず、彼女を施設に閉じ込めてすぐに自分のもとから去っていこうとしていることに、厄介者扱いされ、体よく家族から隔離しようとしていると、感じたのでしょう。
だからこそ、駄々をこね、せっかくJDが用意した施設に入ることを拒みます。
JDにしたらたまったものではなく、彼の事情もあって今そんなことに付き合ってられる時間はない、と感じてしまうのも無理はなかったでしょう。
が、自業自得とはいえ、久しぶりに返ってきた息子と家族らしい時間も過ごせずに離れ離れになることには耐えられなかったと思います。
ベヴのわがままだといえばその通りなのですが、そんなわがままを言えるのは家族だけではないでしょうか。
幸い、JDもリンジーも彼女の気持ちを汲んであげられるやさしさがあり、ベヴもわずかな時間であったものの自身のわがままを聞いてもらえただけで満足して、JDの未来のために自分が障害物になってはいけないことを自覚するだけの正気は保っていました。
映画の終わりに「今では孫たちに囲まれて幸せに暮らし、薬物にも手を出していない」と出ていたことに、救われたと思ったものです。
肝っ玉ばあちゃんボニー
映画のタイトルである「ヒルビリー」
この「ヒルビリー」をこの映画で表せているは祖母であるボニーだけだと思いました。
大家族で開墾とその後の農業で生きてきたケンタッキーでの生活。
そこから工場が出来上がり、都会に移って新しい生活をすることを決断したボニーと夫のバンス。
ケンタッキーで家族同士が支えあわないとやっていけない貧しい暮らしからの脱却を夢見たものの、周りに家族のいないミドルタウンでの生活では家庭内暴力というDVの問題がのしかかる生活でした。
ボニーが目指した「ヒルビリー」からの脱出は、その娘のベヴに引き継がれますが、ベヴもうまくいかずに薬物依存に陥ります。
その結果ベヴの子供であるJDに夢は引き継がれ、ボニーはJDの足を引っ張るベヴからJDを引き離し、幼い彼に成功することの重要さを語るのでした。
ボニーは、成功することの重要性をJDに語りますが、それは彼自身だけでなくゆくゆくは母親や姉をも救うことになるし、今しないと間に合わなくなるという思いはとても悲痛なものだったでしょう。
今はボニーが家族をより良い道に進めるように孤軍奮闘しています。
が、彼女自身の健康状態も芳しくなく、いつ時間切れになるかわかりません。
そうなったときに頼れるのはリンジーとJDの二人。
リンジーについてはあまり映画の中で詳しく語られませんでしたが、JDは明らかに悪友たちのために道を踏み外そうとしていました。
ボニーは自分自身ではうまくいかず、娘のベヴを導くことも失敗し、それを悔いてはいますが、あきらめていません。
残されたリンジーとJDに未来を託し、それに応えたJDの成功によってようやく「ヒルビリー」について回る、呪いのような貧困から逃れられたのでした。
この部分は映画でははっきりと伝えられていませんでしたが、
「ヒルビリー」が抱える貧困という問題を断ち切るためには親子3代の努力を費やすことで、初めて成功するほどの根深さがある
のだと、感じた次第です。
原作の回顧録「ヒルビリー・エレジー 家族の思い出と危機に直面する文化」との違い
映画を見終わって少し気になったのが原作の回顧録との違いでした。
確かに映画は貧困やそれに伴う薬物や暴力などの問題から抜け出す努力を成功させた家族の物語で、ハッピーエンドに胸をなでおろしましたが、先の感想にも記したように今一つタイトルと内容が一致していないことが引っ掛かったからです。
で、いろいろと調べてみると、やはり原作と映画とではかなり伝えたい内容が帰られていることが分かりました。
簡単に言ってしまうと映画はハリウッド受けするような内容に修正されたのです。
家族の努力とそれに伴う困難、そしてそれらを乗り越えての最終的な成功、というある意味おなじみのストーリーだけをクローズアップし、回顧録の作者であるJDが言いたかった「ヒルビリー」が抱える問題には触れていませんでした。
原作の中で一番のテーマとして描かれているのは、
-
・貧しい白人の絶望感
・自分たちが享受できないアメリカの反映への怒り
・貧しい中でも逞しく生きる人々のエネルギー
です。
もともと回顧録のほうには「家族の思い出と危機に直面する文化」というサブタイトルが付いていました。
それは、何世代にわたる家族がお互い助け合い、また近所の人たちも家族同然に付き合って助け合ってきたケンタッキーの文化のことで、映画の冒頭にも描かれていたJDが子供のころに過ごした田舎の思い出のことです。
が、工業化の恩恵を受けようと田舎から出てきた彼ら一家は、グローバル化の波にのまれた結果さびれた町に薬物と暴力、貧困がはびこる場所での生活を余儀なくされています。
同じ貧しさでも「ヒルビリー」達はお互いに助け合って生きているのに対し、ラストベルトの町の人たちは、助け合いの精神はなく、互いのつながりは薄れていったのでした。
そこには二つのタイプの貧困白人が存在しますが、映画ではそういった部分にはほとんど触れずに家族のストーリーに仕上げてしまっており、そのせいで薄っぺらい印象を持たれてしまっているというわけです。
まとめ
映画「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」は、今もなおアメリカで大きな問題となっている白人貧困層の家族を題材にした作品です。
原作の回顧録の中で主人公とその家族の部分だけを取り出してストーリーを仕上げており、最終的にハッピーエンドになるため、見ていて絶望感などは感じません。
が、作者であるJDも自分の本当に言いたいことをハリウッドは正しく理解しないだろう、という前提で監督の映画化路線を承諾した、とも言われているようで、折角の題材をありきたりな味付けで仕上げてしまったという、残念さを感じてしまいます。
もっと社会的な映画になり得ただけに、映画は楽しめたものの、原作を読んでみたいという思いが強くなった映画でした。
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