映画モアナと伝説の海でテ・フィティがテ・カァになった理由を深堀考察!

映画

映画「モアナと伝説の海」は故郷の島に語り継がれる伝説を信じて、その伝説に決着をつけた少女モアナの物語です。

その伝説とは、

    生命をつかさどる女神テ・フィティの心を返し、溶岩の悪魔テ・カァによって海に広がる闇を食い止める

、というものでした。


そして興奮のエンディングはというと、実は溶岩の悪魔テ・カァは心を失ったテ・フィティであったことが分かります。

しかし、なぜテ・フィティは心を失っただけでテ・カァになってしまったのでしょうか?

今回はその点を考察していきたいと思います。







映画「モアナと伝説の海」におけるテ・フィティとテ・カァの力

アメリカの映画ということもあり、しかもディズニーのアニメーションですので、長年培われた勧善懲悪のパターンが、悪い意味で残り続けていたりすると感じることがあります。

近年、ディズニーの作品ではこの傾向をやめようという動きがあることが感じられ、ディズニー・ヴィランズが存在しない作品も出来上がりつつありますが。


一方で自然を相手にしたり、自然をテーマにしたりした場合、このディズニー・ヴィランズという考え方に全く合わないと強く感じることがあります

自然にヒューマニティ、つまり人間の持つ思いやりや慈愛を求めすぎている、ということです。


自然というものは意識を持ちません。

自然に起こる出来事は、自然が意識して、

    「こうしたらそこに住む人たちに恩恵を与えられるだろうな」

とか

    「こうしたらここにいる悪人たちに罰を与えることができるだろうな」

などという計算をせずに起こります。

ですから、その原則に従えば、テ・フィティが島や植物、生命を誕生させているのは人間のためではなく、その力を考えもなく使っているに過ぎないはずです。


一方で溶岩の悪魔テ・カァですが、火山というもの、特に太平洋に浮かぶ島や海底にある火山としてみた場合、テ・カァのしていることは島を生み出す「誕生」にほかなりません

テ・フィティとの違いといえば、生み出すものの規模が大きいため、巨大なエネルギーを必要とし、そのために島という大きなものは作れるものの、それ以外の小さな生命、植物や動物などは弱すぎてそのエネルギーに耐え切れない、ということだけです。


そう見た場合、近寄るものすべてに攻撃を加えるテ・カァは、自分のしている行為の危険性を理解し、近づくものを実力で排除して近寄らないようにしているだけ、と考えることはできないでしょうか?


何はともあれ、テ・フィティとテ・カァの司る力をよくよく見てみると、両女神ともに誕生させる力であることが理解できると思います。

テ・フィティがテ・カァになった理由はテ・フィティの心

では、なぜテ・フィティはテ・カァになってしまったのでしょうか?

その理由は明らかにテ・フィティの心をマウイによって盗まれたからです。


が、より深く考えてみると、心を盗まれたから、という表面的な理由だけではなさそうに思えてきました。

特に、テ・フィティもテ・カァも規模は違えど、誕生させる力を持っていることがはっきりした後は。


こう考えることはできないでしょうか?

テ・フィティの心は湧き上がる力に制御を加えるリミッターの役割をしていたのではないか、と。

つまりテ・フィティとテ・カァのどちらも、誕生させる力を持っています。
違いは、というとその力の大きさです。

テ・フィティは誕生させる力を緩やかに出しおり、その力によって植物も動物も恩恵にあずかれる、というわけです。


一方でテ・カァは誕生させる力は、あまりに巨大です。

マグマを噴き出して島を作り上げるほどですので、高エネルギーの一斉放出をしていると考えられます。

そしてそのエネルギーが強すぎるため、島はできますが、それ以外の生命は誕生できないわけです。


さらにテ・カァの力が海を渡り島々に広がって闇で覆いつくす、と言伝えられていました。

実際にココナッツは病気にかかって収穫量が減り、海から魚がいなくなってしまいました。

これはテ・カァの力が広がっていきている証拠として描かれていましたが、よくよく考えるとテ・フィティの生命を誕生させる力も、同じように広がっているのではないでしょうか?

つまり、テ・フィティの力が世界にいきわたっていたために植物も動物も新たに誕生することができていたわけです。

これがテ・カァに変わり、テ・カァの力が広がるにつれ、受ける恩恵が火山によるものに変わっていったとみることができるでしょう。

実際、黒い渦が島を覆う描写がありましたが、火山灰によっておおわれ、光が遮られた結果の闇、と考えれば、しっくりくるのではないでしょうか。


このようにテ・フィティであった時にいきわたっていたテ・フィティを象徴する力が、テ・カァに変わってテ・カァが象徴する力に代わって、今までと同じように世界に広まっていった、だけで、世界に対して力が広まる、という行為自体には変化がなかったことが分かります。

そしてそれは「誕生」という力であり、違いといえば人が享受しきれないほどの巨大なエネルギーか、それとも人が利用できる程度のエネルギーなのか、であって、それを制御していたのが「心」と呼ばれる宝石であった、と考えられると思います。

テ・カァの存在は人間に制御できない大自然の力を欲した戒め

映画の中でマウイがテ・フィティの心を盗み出した動機について語っています。

それは、人々の要求にこたえることで、自分が必要とされているという欲求欲を満たす必要があり、多くのものを手に入れた人々の欲望がとどまることを知らずに、ついにはテ・フィティの力をも欲するようになったから、というものでした。

つまり、マウイという実行犯は存在しましたが、彼にテ・フィティの心を盗ませたのは、人間の際限のない欲望であった、ということです。


ここに、科学を発達させて、ある物事の一部に介入することができるようになったから、といって、それをすることで起こる副産物にまで考えが回らず、目先の利益のために行動に移してしまう現代人と通じるところがありますよね。

例えば、遺伝子組み換えの植物であったり、完全には制御できない核エネルギーであったり、などがそうでしょう。

映画「モアナと伝説の海」の世界でも、もし人間が自分の意思で自在にテ・フィティの誕生させる力を使えるようになったら、それはとても豊かな生活を送ることができるでしょう。
食糧問題なんて起こりえないほどです。

ですが、そのような自然の摂理に反する欲求を満たそうとすれば、最終的には壊滅的な破滅しか待っていません。


テ・フィティが誕生というエネルギーを制御しなくなっていつでも最大MAXの誕生エネルギーを放出する存在となったとき、テ・カァと変質してしまいました。

そしてそれを生み出したのは、人間の際限のない欲望であり、自ら律することのできない存在となったときの、自然からの強烈なしっぺ返しがテ・カァという存在だったのでしょう。

まとめ

テ・フィティとテ・カァをじっくりと観察してみると、多くの共通点がありました。

それはどちらも誕生を司どっている、ということです。

違いといえば、その規模。

テ・フィティは穏やかなレベルの誕生で、一方テ・カァは島を生み出す高エネルギー。

その違いの前に人間は、一方は恩恵にあずかれ、一方では巻き込まれれば死滅してしまうほどのものであったということです。

そして心という宝石がその誕生エネルギーのリミッターとして、制御をしていた

それを失うことで、常に高出力バリバリのテ・カァが生まれた、と見ることが納得のいく説明ではないでしょうか。


そしてその結果を導き出したのは際限を知らない人間の欲望。

そんなメッセージを読み取ることができるのでした。











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