アニメ「逃げ上手の若君」で北条時行は、新しく信濃守護となって、北条方の残党を見つけようとしている小笠原貞宗に出会います。
信濃国で影響力を高めたいと願っている貞宗は、諏訪の領地を狙い、諏訪を追い落とすために北条の手の者を匿ったという事実を見つけたがっていました。
そんな貞宗は、恐ろしいほどの正確な弓馬術を披露します。
遠くに立っていた巫女の一人の耳を、ピンポイントで弓矢にて撃ち抜くのでした。
その所業に、時行を始め、皆が憤慨しますが、時行は怒りながらも貞宗の弓の挙動を見て、その美しさに感動したのでした。
小笠原貞宗の弓の腕前が、素晴らしいのはもちろんのこと、その弓矢を放つための一連の動作が、どうして美しいと感じてしまうほどの技量を持っているのか、に付いて解説をしていきたいと思います。
- アニメ「逃げ上手の若君」で北条時行が小笠原貞宗の弓の美しさに感動
- 小笠原貞宗の弓の挙動が美しい理由を解説/h2> 小笠原貞宗の弓の挙動、所作を見て、時行が美しいと感じた理由は小笠原家に伝わる秘伝の技法に有りました。 その技法は、歴史が流れても耐えることなく、現在にも伝わっており、我々も習う事ができます。 小笠原流礼法と呼ばれ、礼法、弓術、弓馬術に特化した技法なのです。 小笠原家の開祖である長清が源頼朝の弓馬術礼法の師範であり、息子の長経は3代目将軍の源実朝の弓馬術礼法の師範についているのです。 鎌倉幕府ができた頃の武士は、粗暴でいわゆるしつけがなっていない人たちでした。 そんな武士が国の政治を動かさなくてないけなくなったため、立ち振舞いの美しさ、行儀の良さなどを身につけないと示しがつかなくなってきます。 そこで将軍によって小笠原礼法に目がつけられます。 この礼法を学ばせ、京都の公家達からバカにされない立ち振舞をできるようにしたわけです。 小笠和礼法のコンセプトは弓を射る技法の基礎として無駄のない合理的な動きをすることで礼節と嗜みを身につけるというものでした。 そして立ったまま、美しく弓が射られるようになって、弓馬術という乗馬しながらの弓矢射ちの技術を磨く、という流れになります。 この当時の武士による合戦は、乗馬した武士が弓矢の個人技で優劣をつけるものとされており、どれだけ馬の操作法がうまく、そして弓が強いか、が武士の力量を問う判断材料となっていました。 こうした価値基準に目をつけ、同じ弓矢の戦闘でもどれだけ美しいか、を競わせることで、無駄のない効率的な動きをマスターすることを重要視させたのです。 そして戦場ではない、日常の動作にまでその動き、立ち振舞を行わせることで、武士として人々に尊敬されるように、武士の価値観を持っていったのでした。 その小笠原流礼法において、小笠原惣領家7代の小笠原貞宗は分家である清経家7代の小笠原常興と共に、小笠原弓馬術礼法の基本となる「修身論」と「体用論」をまとめました。 この功績により、貞宗は小笠原流礼法の中興の祖として名前が残っており、そんな彼の弓が美しくないわけがない、というわけになるのです。 小笠原礼法の弓馬術は一騎打ちの技術
- 江戸時代に復活し、現代に受け継がれる
- まとめ
アニメ「逃げ上手の若君」で北条時行が小笠原貞宗の弓の美しさに感動
アニメ「逃げ上手の若君」で諏訪の地に避難した時行の前に、小笠原貞宗という武士が現れます。
彼は、鎌倉討幕の際、足利尊氏とともに後醍醐天皇側につき、鎌倉を攻める軍にも帯同していたのでした。
その功績から、信濃国の守護として任命され、諏訪頼重よりも高い地位に成り上がります。
新しい身分を傘に着て、諏訪頼重のもとにやって来ると、北条の残党狩りをやっていて諏訪氏が治める領地に匿われているのではという疑惑を伝えるのでした。
そして自身の力を誇示するために弓を構え、遠くに立っていた巫女の一人の左耳を射抜くのです。
その暴挙に皆怒りますが、そんな中、時行は貞宗の弓を挙動の一部始終の美しさに感動していたのでした。
小笠原貞宗の弓の挙動が美しい理由を解説/h2> 小笠原貞宗の弓の挙動、所作を見て、時行が美しいと感じた理由は小笠原家に伝わる秘伝の技法に有りました。 その技法は、歴史が流れても耐えることなく、現在にも伝わっており、我々も習う事ができます。 小笠原流礼法と呼ばれ、礼法、弓術、弓馬術に特化した技法なのです。 小笠原家の開祖である長清が源頼朝の弓馬術礼法の師範であり、息子の長経は3代目将軍の源実朝の弓馬術礼法の師範についているのです。 鎌倉幕府ができた頃の武士は、粗暴でいわゆるしつけがなっていない人たちでした。 そんな武士が国の政治を動かさなくてないけなくなったため、立ち振舞いの美しさ、行儀の良さなどを身につけないと示しがつかなくなってきます。 そこで将軍によって小笠原礼法に目がつけられます。 この礼法を学ばせ、京都の公家達からバカにされない立ち振舞をできるようにしたわけです。 小笠和礼法のコンセプトは弓を射る技法の基礎として無駄のない合理的な動きをすることで礼節と嗜みを身につけるというものでした。 そして立ったまま、美しく弓が射られるようになって、弓馬術という乗馬しながらの弓矢射ちの技術を磨く、という流れになります。 この当時の武士による合戦は、乗馬した武士が弓矢の個人技で優劣をつけるものとされており、どれだけ馬の操作法がうまく、そして弓が強いか、が武士の力量を問う判断材料となっていました。 こうした価値基準に目をつけ、同じ弓矢の戦闘でもどれだけ美しいか、を競わせることで、無駄のない効率的な動きをマスターすることを重要視させたのです。 そして戦場ではない、日常の動作にまでその動き、立ち振舞を行わせることで、武士として人々に尊敬されるように、武士の価値観を持っていったのでした。 その小笠原流礼法において、小笠原惣領家7代の小笠原貞宗は分家である清経家7代の小笠原常興と共に、小笠原弓馬術礼法の基本となる「修身論」と「体用論」をまとめました。 この功績により、貞宗は小笠原流礼法の中興の祖として名前が残っており、そんな彼の弓が美しくないわけがない、というわけになるのです。 小笠原礼法の弓馬術は一騎打ちの技術
平安時代末期に起こった源平合戦の頃より、優れた武将として名を残している人物は、ほとんどが弓の名手です。
源義朝の叔父である源為朝、また兄である源頼平は数人がかりでも引けない弓を一人で軽々と引いた、という逸話が残っています。
また、源義経の家来である那須与一の逸話でも、弓矢で的を射る、という行動で、平家物語にその活躍の場面が描かれています。
平安時代から鎌倉時代にかけての合戦とは、武士と呼ばれる騎馬に乗った武士が、一対一で弓で持って勝敗を決する、という個人戦の集合体、という側面が有りました。
そのため、小笠原流礼法によって教えられる弓の技術も、個人技としての弓の技量を鍛錬するもの、という色合いが濃いのです。
これは弓だけではなく、馬の操作術においても、その性格が強いのでした。
時行が活躍する時代になってくると、合戦において個人戦の総まとめ、みたいな戦仕様から団体戦の色合いが強くなっていきます。
その意味から、小笠原流礼法の合戦技法は戦国時代をピークに、武士たちから価値の低いもの、と観られてしまうのでした。
しかし小笠原流礼法は滅びることなく、次の時代で見事に復活を成し遂げます。
江戸時代に復活し、現代に受け継がれる
江戸時代に入って、戦がなくなると、小笠原流礼法の基礎である、日常の立ち振舞、そして競技としての歩射、弓馬術の需要が増してきます。
更に小笠原家が徳川家に仕えたことも有り、幕府の後ろ盾を得る形が出来上がりました。
これは鎌倉時代、室町時代の初期と同様に、時の権力者から統治の一環として利用価値があると認められたことを意味します。
荒くれ者の多かった戦国時代の侍たちに、礼節を教える教材として重宝された、というわけでした。
江戸時代を通じて知識人階級となっていった武士たちにとって、礼節と武道の両方を鍛えることのできる小笠原流礼法は、願ってもない技法だったわけです。
そして現代でも、小笠原流礼法は脈々と受け継がれ、神社における神儀式としての流鏑馬や、礼節を教えるということから、企業へのコンサルなどに利用されています。
また学校によっては、その教えを授業の中に取り入れて、生徒に教えているところもあるのでした。
まとめ
アニメ「逃げ上手の若君」で北条時行が小笠原貞宗の弓矢の射撃技術を見て美しいと感じて理由を解説してきました。
小笠原貞宗は、源頼朝が将軍になった頃より、武家に礼節と弓矢の技術を教える小笠原流礼法を伝える小笠原家の惣領家の当主でした。
この後、分家である小笠原清経家7代当主の小笠原常興ともに、武家の定まった礼節方式であり、小笠原弓馬術礼法の基本となる「修身論」と「体用論」をまとめるのです。
このことから、貞宗は小笠原流礼法の中興の祖と尊敬される事になりました。
そんな貞宗ですので、彼の弓矢の技法が、美しいわけがないのです。
いわゆる、どれだけ美しく弓矢を射られるか、を教える総師範という立場であったわけですから。
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