アニメ逃げ上手の若君北条高時がお飾りの主君であったのは本当?その理由も解説!

アニメ逃げ若

アニメ「逃げ上手の若君」の主人公である北条時行は北条高時の息子です。

北条高時は鎌倉幕府が滅亡した時の北条家得宗という、幕府の総帥の地位にいた人物。

アニメでは全く愚鈍でお飾りの総帥であり、まともに会話すらできない、暗君として描かれていました。

では実際に、北条高時はアニメで描かれているように会話すらできない暗君だったのでしょうか?

今回は北条高時の実像について調べてみましたので、紹介していきたいと思います。







アニメ「逃げ上手の若君」北条高時がお飾りの主君であったのは本当?

アニメ「逃げ上手の若君」で主人公の北条時行の父親として登場する北条高時は、家臣ともまともに喋ることのできない、本当に人間なのか、と思ってしまうほどの暗君として描かれています。

周りの御家人からもお飾りの主君で、存在するだけの幕府の総帥であると認識されていました。


実際の北条高時は、というと、今に残るいくつかの歴史書の中で、闘犬や田楽といった趣味にふけるだけで政治を顧みず、幕政を混乱させた暗君であると記載されています。

しかし歴史書というものは、勝った方の正当性を大げさに主張する事が多いということも考慮に入れないといけません。

室町幕府を開いた足利体制の正当性を主張するため、滅ぼされた北条家の治世がどれだけひどく、だからこそ室町幕府が開かれたのだ、という展開にされている可能性が高いわけです。

歴史書の言い分を100%信じる必要は有りませんが、揚げ足を取られるというか、暗君であるという主張ができるほど、付け込まれる隙があったことも事実でしょう。

北条高時はとんでもない暴君であったわけではないと思いますが、滅ぼされた事実がある異常、何らかの欠点を有していた、ということは確かだと思われます。

幼くして幕府の総帥を継いだが病弱

高時が幕府の総帥を継いだのは彼が9歳のときです。

今の時代で言えば、小学4年生。

そんな子供に政務が務まるわけが有りません。

ですので、総帥の地位を継いだとはいえ、実際の政務は後見人と言われる外戚や有力御家人、北条氏庶家等によって、合議制で政治は動かされていました。


鎌倉幕府はもともと、源頼朝が将軍としてトップに立ち、その家臣団が政治面でサポートする、という形で始まっていましたが、頼朝の子供、孫が早くに亡くなったことで、家計が断絶し、京都から公家を鎌倉につれてきて、将軍にしていました。

公家将軍はお飾りで、北条家以下、有力御家人が実際の政治を動かし、力を保持してきたのです。


皮肉にも時代が移り変わって、幕府の総帥を排出していた北条家もお飾りとなり、他の御家人や北条家の家臣が北条家総帥に変わって実質的に政治を動かしていたのです。

そんな状況で、9歳という年齢で総帥という地位を継いだとしても、高時の意思で政治が動かせるはずが有りません。

お飾りという立場に疑問を持たずに大きくなり、総帥という特権があるため、趣味を楽しむだけの財は余るほど持っていた。

ということで、趣味に没頭し、政治を顧みなかった、という評価につながる生活を送る羽目になったのでした。、


さらに歴史書には高時が病弱であった様子が描かれています。

そのため、24歳という若さで総帥の地位から隠居もしているほど。

この病弱の理由として、彼の父親、祖父、高祖父と4代にわたって妻として安逹家から女性を迎えており、この血族結婚が原因である、とする説が唱えられています。


北条高時は厳密には主君ではない

ところで北条家は将軍に仕える御家人の一族に過ぎません。

その御家人の中で、一番の権力を持ち、政治に携わるという立場にいただけです。

もちろん、北条家自身、自前の家臣団を保持していましたが、この家臣団にとって北条家は主家にあたり、そのトップであった高時は主君です。

が、将軍の家臣である他の御家人にとって、北条家は同僚であり、北条家当主が他の御家人の主君ではありませんでした。

この頃の鎌倉幕府は有力者たちの寄合によって政治が動かされていましたが、北条本家はその寄合の議長的立場にいたわけです。

しかし高時の父親貞時より、その寄合に参加しなくなり、北条本家も将軍同様、お飾りとなっていったのでした。

北条高時がお飾りの総帥であった理由も解説!

北条高時がお飾りの総帥となった理由を解説する場合、彼の父親、貞時のことを説明する必要があります。

貞時は、モンゴルが日本に攻めてきた際に幕府の総帥であったと北条時宗の息子に当たります。

北条時宗は貞時14歳のときに亡くなりました。

そこから政務の実権を掌握するのに9年の月日がかかりますが、貞時が23歳のときに平禅門の乱という事件を経て、幕府の総帥にのぼりつめます。

その後、政務に勤しみ、北条本家が幕府の実権を握る得宗専制を確立するまでに至りました。


しかしその後、高時が3歳のときに起こった嘉元の乱以降、貞時は政務に対する意欲を失って酒浸りの生活になってしまいます。

その後、高時が9歳のときに父はなくなりますが、それまで、父貞時の酒浸りの姿しか見ておらず、いわゆる模範とする人が周りにいなかったのでした。

逆に父親が幕府の総帥でありながら政治を見なくても幕府が機能している姿を見て、高時が政治に口出しせず、自分の興味のあることだけをしていればいい、という価値観を持つに至った原因となったことが考えられるのです。

まとめ

アニメ「逃げ上手の若君」で北条高時がお飾りの総帥であったのは本当かどうか、そしてその理由についての解説をしました。

鎌倉幕府体制が、将軍というお飾りをトップに据え、有力御家人達の寄合制度で運営されていました。

そしてその寄合衆の中で北条氏がトップを務めていたのですが、高時の父親、貞時がある時期を境に寄合に参加しなくなってしまいます。

それでも残りの寄合参加者によって政治が回っていったため、将軍だけでなく北条家もお飾りで良い、という流れになってしまいました。

高時は父の死によって、9歳で総帥の地位を継がざるを得なくなってしまいます。

寄合参加者はますます高時を、政治の執行者として必要としなくなり、高時も父親の代からそのような総帥の立場しか知らなかったため、お飾り以上のことは求めなかったようです。

権力を基盤とした経済的な優位性は保たれていたため、趣味の闘犬や田楽ばかりにうつつを抜かしていた、という歴史的な評価を受けることになるのでした。









コメント

タイトルとURLをコピーしました