アニメ「逃げ上手の若君」では、足利尊氏の裏切りにより、鎌倉幕府が崩壊し、北条家が滅んだ事になっています。
実際に足利尊氏の裏切りは、鎌倉幕府の崩壊に大きな影響を与えました。
が、尊氏がはじめから鎌倉幕府を滅ぼし、自分自身の手で天下を収めようとしていたわけではなさそうです。
今回は、鎌倉幕府と北条家が滅んだ理由を詳しく解説していきたいと思います。
アニメ逃げ上手の若君で鎌倉幕府と北条家が滅んだ理由を解説
アニメ「逃げ上手の若君」では鎌倉幕府と北条家が滅んだ理由は、足利尊氏の裏切りであるように描かれていました。
しかも、その裏切りは、突発的なものではなく、前もって計画されていたように受け取れられます。
実際の歴史の流れを調べてみると、1333年の年が明けた時点で足利尊氏ははっきりと裏切りを決意していたわけではなさそうです。
積もり積もった不満が爆発
鎌倉幕府が滅んだ原因を調べてみると、「これ!」といった一つの理由、というものが無いことに気が付きます。
滅亡までに積もりに積もった不満が、京都で起こった天皇の跡目争いをきっかけに顕著化し始めました。
そして、天皇の跡目争いに乗じて起こった反乱に対し、鎌倉幕府が速やかに対処できな語ったことで、拡大していき、遂には幕府が倒されるという流れになったようです。
鎌倉時代後期になると、幕府では北条高時や時行の一族である、北条得宗家が権勢を振るっていました。
その関係から北条一門の知行国が全国的に著しく増加していきます。
一方で、御家人層では、以下の理由で生活が困窮し、没落する者も増加していました。
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・元寇後も続けられた異国警固番役の負担
・元寇の恩賞や訴訟の停滞
・貨幣経済の普及
・子孫が相続する際の所領分割
モンゴル軍が攻めてきた2度の元寇は、御家人の活躍もあって撃退されましたが、防衛戦ということも有り、幕府にとって恩賞として与える領地が増えたわけではありません。
つまり、幕府は直轄地から恩賞の土地を出さなくてはいけないわけですが、そうなると幕府の基盤が弱くなるため、その手続は遅々として進みませんでした。
その一方で、3度目のモンゴル軍の襲来に備えなくてはならず、その費用は異国警固番役を担わされた御家人持ち。
これでは逼迫していく一方です。
更に、この頃の御家人は、息子に家を継がせる場合、保有している土地を譲っていました。
問題は、息子が複数人いた場合。
この場合、嫡男だけに土地を継がせるのではなく、息子全員に分割して土地を相続していたのです。
ですので、相続が続けば続くほど、一人あたりの保有する土地は少なくなります。
もちろん生活ができるだけの収入は、どんどん少なくなってきます。
更に貨幣経済が発展したきたことで、所領で取れた農作物を貨幣に替え、それによってすべての支出を賄わなければならなくなってしまいました。
その年の農作物の価値が変化してしまうようになり、収入は安定しません。
御家人の中で、多くの借金を抱えるものが増えていくことになったのです。
この問題を解決するために、幕府は徳政令を発して対応します。
徳政令とは借金を帳消しにするというもの。
確かに借金まみれになっていた御家人は、その場は助かります。
が、これによって債権を無理やりゼロにされた人々は、二度と御家人に借金を貸さなくなってしまいました。
お金を貸してもまた踏み倒されてしまうということを考えれば、当たり前の反応でしょう。
これによって借金ができなくなってしまった御家人の生活は更に苦しくなります。
それを解決するために当時「悪党」と呼ばれていた、鎌倉幕府の行政システムには組み込まれていない、私兵集団などを形成して、独自の自治領を作り上げる集団が登場するようになったのでした。
天皇の跡継ぎ争い
そんな混乱期に、京の朝廷では天皇の跡継ぎ争いが起こっていました。
2つの派閥に分かれ、片方から天皇を出した後、次の天皇は別の派閥から即位する、という制度を取っていたのです。
が、後醍醐天皇は実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握れないこの制度に反発し、この思いから鎌倉幕府を倒幕しようと画策するようになります。
もちろん、この動きを察知した幕府は、それを阻止すべく天皇と一味を捕らえて島流しにしたりしました。
が、全国の御家人の中に鎌倉幕府憎しの感情がうずまいていたため、後醍醐天皇を助けることで、鎌倉幕府の圧政から逃れられるのでは、という想いが高くなってきます。
こうして、後醍醐天皇派の反逆軍が、登場するようになったのでした。
失敗する反乱討伐
もちろん鎌倉幕府は、これらの反逆軍を討伐するために、軍を派遣します。
反逆軍は討伐軍によって敗れることが大半ですが、反逆軍は、敗れると離散し、討伐軍がいなくなるとまた集結するというゲリラ戦を展開します。
その最たる武将が楠木正成。
彼のゲリラ&籠城戦に倒幕軍は散々悩まされ、鎮圧したと思ったら、また別のところで挙兵されるという状況に疲弊していきます。
この状態が続くと、討伐軍に参加していた御家人に、鎌倉幕府軍が意外にも強くないのでは、という感情が芽生えてきます。
また、一所懸命働いても被害は大きくなるし、勝っても元寇のときのように恩賞が出る保証もない、と戦意のない部隊も多くなってきたのでした。
そんな機運を日に日に強く感じていたのが足利尊氏だったのです。
足利尊氏という存在
足利尊氏は北条家と婚姻を結んで御家人の名門として全国区で名前が知れ渡っていました。
彼のもとに御家人から、幕府の理不尽な仕打ちに対する苦情なども届いていたことでしょう。
尊氏自身、幕府の命令で討伐軍に参加していますが、戦場での幕府軍側の戦意の低さ、反対に反乱軍の希望に満ちた戦意の高さなどを感じたはずです。
そこに後醍醐天皇から鎌倉幕府を討てとの命令書も届きます。
世間の波は、鎌倉幕府の倒幕に向け、大きなうねりを作り出していることを実感し、これに逆らわず、波に乗ることこそ、御家人、そして足利一門にとって有利な未来が広がると判断しました。
そして尊氏は天皇側に寝返ります。
武家の名門として知られた尊氏が寝返ったという報は全国を駆け回り、その動きに続く武士たちが続々と現れたのでした。
新田義貞の謀反理由
鎌倉幕府を滅亡に追いやった武将は新田義貞です。
新田氏は足利氏と縁続きの武家でしたが、足利氏と比べれば、知名度は大きく隔たりが有りました。
新田義貞が倒幕の挙兵をした後、アニメ「逃げ上手の若君」でも述べられているように、足利尊氏の嫡男、3歳の義詮が、北条方の人質という立場から逃げ出します。
有能な家臣とともに義詮が新田軍に加わったことで、それほど高い声望がなかった新田軍に次々と援軍が駆けつけ、数万の大軍に膨れ上がったのでした。
ちなみに義貞の挙兵の理由ですが、以下のように伝わっています。
楠木正成討伐のために膨大な軍資金が必要になった幕府は新田義貞が治める新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫ったのです。
その過酷な取り立てに耐え切れなくなって幕吏を殺害・投獄したことに端を発していたのでした。
これを見ると新田義貞も、壮大な倒幕計画を綿密に練っての挙兵、というわけではなく、成り行きで倒幕の軍をあげた、ということになります。
しかし時代の流れが新田側にあったため、挙兵した際には騎兵150騎の軍隊(歩兵を含めると500人ほどか)でしかなかったものの、鎌倉を攻める際には数万騎に達したのでした。」
まとめ
アニメ「逃げ上手の若君」では鎌倉幕府と北条家が滅亡した理由は、足利尊氏の綿密な計画によって、という印象を受ける描写となっていました。
実際に調べてみると、全国的に困窮しているご兼任が増える一方、その救済をほとんどせず、仲間内だけ権力を使って不当な利益をあげていた北条家に対し、不満が募っていっていたことがわかります。
そして朝廷の天皇跡継ぎ争いを端に発した反乱に、幕府が迅速に対応することができなかったことで、幕府の実力のなさが可視化されてしまったのでした。
その流れを機敏に察した有能な御家人が鎌倉幕府からの離反を決め、その動きが源氏の名門、足利尊氏の離反という事件をきっかけに雪崩を打ったように進んだことで、鎌倉幕府は対応することができなくなったのです。
この結果、鎌倉幕府はわずか24日で滅亡するという結果になってしまったのでした。
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