青年期 本当の自分に気が付き始めるもののそれに戸惑うシャロン
17歳となったシャロンの日常はましになるどころか、ひどくなる一方でした。
母親の薬依存は深刻化して中毒者になっており、家財道具は薬のために金に変えられていき、
それすらなくなるとシャロンに無心する始末。
学校ではやはり友達もなく、テレルとその子分たちにより深刻ないじめを受けています。
唯一気が休まるのはテレサの家だけですが、その頃ファンはすでに亡くなっていました。
おそらく薬の売人だったということを考えると、何かのトラブルに巻き込まれて殺された
というところではないかと思いますが、作品中に死因が明かされることはありませんでした。
幼い頃からの友人であるケビンとも仲良くしていますが、シャロンの中でケビンに対する
思いは友人以上のものに膨れていくのでした。
第2章の青年部では、第1章の少年部でファンがシャロンに言って聞かせた、「何になるかは
自分次第だ」という助言の答えを出すことになったと思います。
ある夜、浜辺でシャロンとケビンは出会い、薬の力も手伝って一線を越えます。
しかしそれからすぐ、放課後にテレルに無理やり従わされたケビンによってシャロンは殴り
つけられます。
映画を見ていて、一線を越えた夜にゲイである自分を受け入れるつもりになったと感じました。
しかし想っていた友人から殴りつけられると裏切り行為に傷つきながらも、何か悟ったと
いうか吹っ切れたかのような表情で殴られても地べたに這いつくばらず、何度でも起き上がる
姿に、今までの自分と決別するかのような覚悟を見た気分でした。
その覚悟を、翌日の学校で教室に入るなり、テレルの後ろから椅子で殴りつけるという行動で
表すシャロンですが、学校に行く前のシーンで自宅の洗面台の前で自身の映る鏡を見つめる
姿にも、自分を捨てる決意をしたことを感じました。
シャロンがテレルへの暴行で警察に連行され、パトカーに乗せられて走り去るまでのところに
偶然に居合わせたケビン。これまでのシャロンの最後の目撃者となってしまったのです。
感想 アメリカならではの学校内でのトラブル対処
シャロンが暴行を受けた後、手を出した犯人に対して訴えるようにソーシャルワーカーが
すすめるシーンはすごくアメリカ的だな、と感じました。
最近、日本の学校も校内のトラブルに警察が介入するケースが増えてきていますが、ここまで
はっきりと「訴える」ように担当官がすすめるということはないでしょう。
いじめによる自殺などの報道が出るたびに、日本だと学校内で隠蔽をしようとしていた、
みたいな情報がほとんどの場合ででてくる印象があります。
起こってしまった不祥事を恥とし、原因の究明よりも公にならないように腐心するムラ社会
根性からなのでしょうが。
一方で、そう簡単になんでも警察ということでいいのか、とも思いますが、なんでも先生に
任せてしまうという日本の現状は問題ありだと思います。
そんな専門性を持つ教師はまずいないのですし、ただでさえ、教師のオーバーワークが
問題になっていますので、そこから政府の手助けが必要ではないかと思います。
映画とは全く関係のない感想でした。
成人期 タフな自分を作り上げることができたが、本当の自分で無いことに気付く
最後の第3章では変わった自分にも、結局納得できず、本当の自分を認めることができて
映画が終わる、と感じました。
暴行事件でアトランタの施設に送られ、そこを出た後、薬の売人となったシャロン。
子供の頃の面影は無く、鍛え上げた肉体に金のネックレス、高価な腕時計など肉体的にも
経済的にも成功していました。
しかしそれほど幸せな生活を送っているとは思えず、なにより幸せそうな表情をしていません。
やはり向き合わなければならないのは母親とのこと、そして自分がゲイでケビンが好きな
ことを認めることなのでしょう。
母親とは疎遠となっていて、かかってくる電話にも出ないことも。
これまでの経緯から当然とも言えるシャロンの行動ですが、母親として子供に愛情を注いで
いたのかがとても気になります。
子供をペットのように、自分の都合のいいときだけ可愛がっていたような印象を受けて
いて、いくら「愛していた、愛している」と言われても何を今更、と思ってしまうのでした。
ただ、ポーラの立場になってみれば、例え彼女の都合の良いような愛情表現でも愛していた
ことにはかわりないのかな、とも思えなくもないです。
子供にとってはいい迷惑ですが、ボクも2児の父親ですので、ポーラのような自分にとって
だけ都合のいいような愛し方はしないようにしようと、強く思いました。
ちなみに犬も飼っていますが、犬に対してもあんな愛情の注ぎ方はしてはいけないと思い
ましたけど。
母親を許すことができたのはケビンからの突然の電話がきっかけでした。
母親を許した後、ケビンと再会することにして、彼が働くレストランへ出向きます。
ケビンはケビンで未婚の父親になっており、やはり犯罪を犯して執行猶予期間中でした。
しかし、貧しいながらも昔のような心配事はなく、平和に日々を過ごしているといいます。
17歳から25歳までの8年間、全く連絡も取らなかったケビンが突然シャロンに連絡をとった
事。そしてそれに再会することで応えたシャロン。
シャロンはある程度、成功してマシな生活を手に入れていましたが、やはり自分が本当に
だれであるのかを認めない限り、平穏な生活を手にすることはできなかったのでしょう。
ケビンはケビンで、17歳のあの日、シャロンを裏切ってしまったことを今でも悔やんで
いたと思います。
そんな2人が本当の自分を認めることで結ばれ、そして映画は終わるのでした。
まとめ&感想
映画として見終わってスッキリした、とかスカッとした、という爽快感はありませんでした。
自分を認めることで心の平穏を得ることができ、そしてそこから始まる、という感じの
エンディングでしたが、個人的に少し心配したのはゲイのカップルとして平穏な人生が
この先、本当におくれるのかな、ということでした。
とはいえ、映画としてわかりやすくするためにゲイという題材を用いたと思います。
ゲイでなくても、なんとなく自分自身のことを理解できず、孤独感を持って悩んでいる人が
いると思いますので、そんな人達が向き合うであろうという物語として捉えれば良いのでは
ないかな、と感じました。
アカデミー賞の助演男優賞をとったマハーシャラ・アリの好演はもちろんですが、個人的には
シャロンの母親役のポーラを演じたナオミ・ハリスの演技にも惹きつけられました。
当初は典型的な黒人女性ということで役に対して乗り気ではなかったそうですが、決心した
後、麻薬中毒患者へのインタビューなどを行って、見事にその役を熱演しています。
月並みな感想かもしれませんが、人は飾らない本当の自分自身を認めること、そしてそんな
本当の自分を認め、受け入れてくれる人がいることで、本当の幸せをつかめるのだな、と
思いました。
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