映画パワーオブザドッグのタイトルの意味を考察して解説!犬の力とは男性のエゴ

ドラマ

映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」

西部劇の映画ですが、奇妙なタイトルです。

果たしてその意味は一体どこから来ているのでしょうか?


この不思議なタイトルの意味を調べてみると映画監督を務めたジェーン・カンピオンへのインタビューの中に、

    「『犬の力』に、男性が逃れらることのできないエゴという意味を込めた」

というものがありました。

今回はこの言葉を手がかりにタイトルの意味を解説し、深堀で考察していくことにしたいと思います。







映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」のタイトルの意味

映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は、1967年に発表されたトーマス・サーベジの小説が元ネタです。

映画タイトルも小説のタイトルをそのまま使い、内容もほとんど全く変更されることはありません。

そして「パワー・オブ・ザ・ドッグ」というタイトルは旧約聖書の一文から取られたのでした。

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」の元ネタは旧約聖書の一文から

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」とは旧約聖書における「詩篇22」からの引用だと言われています。

それは、

    「我が神、我が神よ、 なぜ私をお見捨てになるのですか。 なぜ遠く離れ私を助けずに、 私の言葉を聞こうとされないのですか」

という言葉から始まっており、イエスキリストがゴルゴダの丘で十字架にかけられて処刑されるシーンだとされています。

更に詩篇は、

    「犬は私の周りを囲み、 悪人の群れが私の手と足を刺し貫いた」

    「神よ、遠く離れないでください。 私をお救いください。 私の魂を剣(つるぎ)の力から、 そして私の命を犬の力から助け出してください」

と続くのでした。

聖書の中での「犬の力」の意味するところ

一方、新約聖書の中では、イエスキリストは処刑されるにあたって、

    「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」

と神にイエスを処刑しようとしているローマ兵の魂の救いを祈ったという記述があります。


それは、イエスを処刑しようとしている彼らに罪があるのではなく、これらの行為が意味するところを知らないローマ兵の無知こそに罪がある、と解釈されています。

つまり、「犬の力」とは無知なるがゆえに行ってしまう暴挙、という意味が込められていると解釈できるでしょう。

ジェーン・カンピオン監督が表現したかった「男性のエゴ」

そのうえでジェーン・カンピオン監督は無知から行使されてしまう「犬の力」に、「男性のエゴ」という一面を加えて、撮影を行った、とインタビューで明かしています。

そしてその「男性のエゴ」とは、アメリカ大統領になったドナルド・トランプを意識していたことも告白していました。


ジェーン・カンピオン監督が感じるところでは、強い男を演じ、終には強い男を演じることをやめられなくなる男性というのは、自分のエゴにがんじがらめになっているというのです。

そしてその結果、間違いを認められない、愚かな人間に成り下がっている、と。

そんな自分よがりの理想の男性像を守るという「男性のエゴ」に縛られたキャラクターとしてフィルという主人公を作り上げたのです。

フィルにとっての「パワー・オブ・ザ・ドッグ」を解説

フィルにとっての「パワー・オブ・ザ・ドッグ」とは何だったのでしょうか?

映画を見ていて感じるのは、彼が感じている美意識だったように思います。

女性蔑視、原住民蔑視をし、教養がありながらモンタナの大自然の中で自分の力だけで生きていけるだけの野生の男。

他の男性をまとめ上げ、彼らから尊敬と畏怖を一身に集める、全知全能の男性神。


これがフィルにとっての「パワー・オブ・ザ・ドッグ」だったのでしょう。

そしてフィルにとって、この「パワー・オブ・ザ・ドッグ」を体現した男ブロンコ・ヘンリーがおり、彼からカーボーイとしての理想の男性像を具体化させていくことになります。

やがてフィルの中でブロンコ・ヘンリーへの憧れは、肉体的な関係を結んだ後も、理想に近づくための、神に深く触れるための儀式という感覚だったと思います。

フィルにとってブロンコ・ヘンリーとの一夜の経験は同性愛者同士の性行為といった下種なものではなかったのでしょう。

「犬の力」=男性のエゴに食われてしまったフィル

しかしフィルが抱いていた「パワー・オブ・ザ・ドッグ」という理想は、彼だけが強く信じ込んでいたエゴでしかありません。

フィルがピーターの中に、同じ世界を体感できる素質があることに気が付いた時、フィルは、かつてフィルを導いたブロンコ・ヘンリーのような立場になれるかもしれない、と歓喜しました。


が、ピーターはフィルとは全く違った目的を持っていました。

ピーターは自身の母親を守るため、元凶であったフィルを取り除こうとしていたのです。

そしてそのために、フィルが感じていた「パワー・オブ・ザ・ドッグ」はピーターにとって格好のフィルの弱点となったのでした。

おそらくフィルはそのことには気が付いていなかったでしょうが、結果的には自分自身が美意識を感じているエゴによって命を失ったことになったのです。

考察のまとめ

映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」のタイトルは原作となった小説でも使われたタイトルをそのまま使用しました。

そして「パワー・オブ・ザ・ドッグ」の元ネタは旧約聖書「詩篇22」からの引用です。

原作小説の作家トーマス・サーベジは「無知がもたらす暴挙」という意味から「パワー・オブ・ザ・ドッグ」をタイトルにしたのではないか、と考えられています。


一方、映画のタイトルにはジェーン・カンピオン監督によって「男性のエゴ」という意味も付け加えられました。

そのエゴによって、フィルが持つ美意識にそぐわないものは排除され、また、彼の美意識を成就させたいという強い欲求をうまく利用され、ピーターの罠にかかってしまったわけです。


「パワー・オブ・ザ・ドッグ」とはエゴまみれの美意識に縛られて身を滅ぼした男性の物語なのでした。









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