カナダ在住20年の筆者が見た映画の感想とふと思った疑問についてを勝手気ままに書いていくブログです。

映画キャッツが怖い・不気味・わけが分からないと酷評される理由を考察!

 
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映画「キャッツ」が日本でも公開されました。

クリスマス商戦で一儲けという目論見で、北米では先行公開されましたが、その結果は散々。

そんなニュースは日本にも伝わり、公開に際してすでに「怖いもの見たさ」の人も多かったのではないでしょうか。


そんな「キャッツ」の評判は、というと、

    やはり悪かった。
    怖かった。
    つまらなかった。

という人もいますが、

    それほどでもなくたのしめた。
    素晴らしいパフォーマンスだった。

という人もいるようです。

とはいえ、日本で70億を稼がないと黒字にならないという状況は、もはや救いようがないとはおもいます。


それはさておき、なぜこれほどの評価になってしまったのか、その理由を考えてみました。







映画キャッツの登場キャラが怖いし不気味なわけ

映画「キャッツ」で登場するたくさんの猫たち。

この猫が怖いし不気味ともっぱらの評判です。

その理由を考えてみたのですが、一番しっくりくるりゆうとしては、「中途半端にリアル」に尽きるのではないでしょうか?


登場キャラの顔はオデコから下、首まではほぼ完全に人間です。

唯一の猫化としての加工はひげが生えているくらい。

それでいて前進毛むくじゃらで猫の耳としっぽを持っている全身像。

もうそれは猫に近づけたいのか、出演俳優を前に出したいのかどっちつかずになってしまっているとしか思えません。

そしてその顔や上半身、全体像のアップが映画として大画面に繰り返し現れるので、猫なのか猫じゃないのか、そんなどうでもいいことに気が散ってしまいます。


「キャッツ」とは本来、歌と踊りを楽しむためのミュージカルで、それがすごいからこそ、ミュージカル作品として最高作の一つとして数えられていると思います。

そんな「キャッツ」で歌と踊りを楽しむのに邪魔な要素、出演俳優をどこまでリアルに猫の姿にできるか、なんてものはさして重要ではありません。

そんなリアリズムを求めて観客は来ていませんし、そもそも猫が歌って踊ること自体リアルであり得ません。

いっそのこと部隊のように顔も猫鼻にして、演じた俳優の面影をなくしてしまってしまえばよかったと思いますが、そこは出演契約で縛りでもあって、俳優の顔を大画面で認識できるようにしないといけないことにでもなっていたのか、と勘繰りたくなります。

猫らしくしたいのか、エンタメを追求したいのか

また映画のシーンではキャラによって猫らしいしぐさを取り入れています。

特に、トップバッターを務めたジェニエニドッツは、よく猫がするしぐさの一つとして後ろ足を広げて顔を入れ、毛づくろいをする姿をほうふつさせるような恰好をしていました。

が、あの格好はむくむくの毛むくじゃらの、短足の猫がするからかわいらしいのであって、人間の足をもった猫ですよ、と主張しているだけの中途半端な物体がしたところで、かわいらしさはありません。


人間の足があるだけに、ただのお下劣な恰好でしかない、と感じた人も多かったでしょう。

さらにそのジェニエニドッツはネズミを奴隷化し、生きたゴキブリをおつまみのように食します。

リアルな猫はネズミを奴隷化はしませんが、ネズミに対して優位な存在だけに、そのようにふるまうこともできることは想像できますし、実際の猫がゴキブリを捕まえて口にくわえていることは、見かけた人もいるでしょう。

ただ、そんなリアルをミュージカル映画の中で見たいか、と言われると答えは断然Noだと思います。

ゴキブリが苦手な人であれば、あのシーンを見ただけで卒倒して映画館から逃げ出すことでしょう。


なぜ、あのようなシーンにしたのか、監督のセンスを疑います。

ジェニエニドッツは歌って踊る猫のショーのトップバッター。
そこで観客を、これから始まる世界にぐっと引き込まないといけないのに、これでは全くの逆効果。

ミュージカルでは、ネズミやゴキブリを引き連れて大人数でタップダンスを繰り広げる見どころを披露しています。

ジェニエニドッツを演じたコメディアンのレベル・ウィルソンにタップダンスのリードを任せることができないからあのような演出になったのでしょうが、それなら大きな人選ミスです。

リアリティを追求できるところでしていない

ジェニエニドッツでいえば、毛皮を脱いで衣装をまとった姿になるのも衝撃でした。

これは、ミュージカルでは丸々と太ったジェニエニドッツを現すのに着ぐるみをつけて表現し、タップダンスのシーンでそれを脱ぎ捨ててダンスを行う必要からの演出を映画にも取り入れようとした結果でしょう。

ミュージカルではダンサーとしてスマートな体形のジェニエニドッツを太った猫にしないといけないから、ということでのアイデアなわけですが、映画でふくよかな体形のレベル・ウィルソンを起用した以上、そんな演出は必要ないわけです。

大体ミュージカルではタップをしないスキンブルシャンクスにタップをさせるのであれば、ジェニエニドッツにタップを絶対させないといけない理由はありません。

映画「キャッツ」のジェニエニドッツにタップをさせる必要もないし、毛皮を脱がせる必要もないのです。


そしてさらにいえば、ジェニエニドッツのシーンで登場するネズミとゴキブリ。
わざわざ顔を人にする必要はあったのでしょうか?

よくよく見るとネズミの顔、子供のようにも見えます。

本当にその通りであれば、かなり悪趣味としか言えません。

そしてその縮尺。まったくもって無茶苦茶ですよね。

まぁ、一口にネズミ、ゴキブリといってもいろんな種類がいるので、猫との大きさの違いであの大きさになるネズミやゴキブリが存在するのかもしれませんが。

もっと一般的にいってネズミやゴキブリを連想する、しかも猫と比較しての正しい大きさにできなかったのでしょうか?

こういうところではリアリティを追及したほうがいいと思うのですが。


さらに付け加えるとすれば、キャラクターの大きさも問題があったと思います。

「猫から見た視点」というコンセプトで大きなセットを作り上げて撮影した今回の映画。
そのセットの大きさは本当に正しいのか、と結構気になってしまいました。

とくにひどかったのが、マンゴジェリーとランペルティーザのシーン。

明らかに猫が小さすぎるように見えるセットの作りだと気が散ってなりません。

ベッドの大きさ、食器の大きさ、それから比べると「キャッツ」の猫ってかなり小さいなと。
しかも大枠の姿かたちは人間ですので、余計にそれが目に付いてしまい、気になります。

他にはバストファー・ジョーンズのシーンで漁ったゴミから出てきた食料。

これを手にして食べる猫たちですが、その食べ物を持つことで猫の大きさに意識が行ってしまい、これも一つ一つで大きさがバラバラで、猫たちが大きいのか小さいのか、訳が分からなくなってしまいました。


こういった情報は目から入ってきて無意識のうちに不自然感を認識させ、それによってストーリーやパフォーマンスにのめりこんでいる意識にストップがかかってしまうという重大な欠点でしかありません。

そしてどうでもいい猫のサイズについて、こうだろうか、ああだろうか、と考えをめぐらさざるを得なくなり、せっかくの楽しみが台無しになってしまうのです。


また、不自然さはその理由がはっきり認識できないと怖さや不安、不気味さに変ってしまいます。

これらの一つ一つが映画「キャッツ」は怖い、不気味だ、という評価になったのではないでしょうか。

訳が分からない理由はストーリーが薄いから

映画「キャッツ」に訳が分からないと感じる理由はただ一つ。

    ストーリーが薄い、というよりストーリーがないから

これに尽きます。


この理由としてもともと「キャッツ」は子供向けの詩集をミュージカルにしたというところに遠因があります。

ミュージカルは舞台の上でパフォーマーたちが生の演技を披露してくれるのを楽しむという、映画とは決定的に違う部分があります。

観客の前で生のダンス、生の歌を披露するわけですので、失敗すれば観客にまるわかりになるというスリリングな真剣勝負が繰り広げられるわけです。

そうなると観客の注目はダンスや歌などのパフォーマンスに重点が置かれ、それに反比例するように物語は単純明快のほうがよくなります。


ところが映画は、撮影に対して満足いかなければ何度でも撮り直しは可能です。

歌なら撮影時に口パクでもあとから音をかぶせることもできますし、何なら別の歌手の歌を入れ込むことが可能です。

そういったミュージカルとは全く違ったエンターテイメントですので、楽しみ方も異なり、ある程度のストーリーの重厚さや一貫した筋がきちんと通っているかがかなり重要になってきます。

ところが「キャッツ」はほとんどストーリーに変更はありませんでした。

ジェリクルキャッツと呼ばれる猫の集団の中で、ジェリクルボールの夜に新たに生を受ける猫を1匹だけ選ばれる。

簡単に表せば、これだけです。

そしてその中で映画の視聴者はいろんな疑問が湧き出てくるわけですが、それについては何の回答もありません。

そして映画は終わるのです。

これを見せられた訳が分かれば、とんでもない能力の持ち主でしょう。


いくつかの疑問について具体的にあげてみましょう。

猫の名前

ヴィクトリアが捨てられてジェリクルキャッツ達に出会ってから、猫の名前について聞かされます。

それによると猫には3つの名前がある、というのですが、それを聞いたヴィクトリアは、ヴィクトリア以外に名前を持とうとしませんし、他のジェリクルキャッツもヴィクトリアに第2、第3の名前を付けようともしません。

そして何より、それから登場する誰もが、2つ以上の名前を持っていません。
少なくとも一つの名前以外、他の猫に知らせることはありません。

いったいあの「猫には3つの名前がある」という曲は、どういう意図で歌われたのでしょうか?

なぜだか魔法が使える怖い猫が2匹

ジェリクルキャッツの中にはなぜだか魔法が使える猫が2匹、存在します。

マキャヴィティとミスター・ミストフェリーズの2匹で、どちらもテレポーテーションの魔法を、映画内では使用しています。

マキャヴィティはほとんどの魔法を使用するシーンでテレポーテーションを成功させていますが、なぜだか最後の最後に失敗させています。

その失敗も、魔力をなくしたかのようなリアクションをしていたのが気になりましたが、今後、マキャヴィティは魔法を使えなくなったのでしょうか?

それよりもなぜマキャヴィティが魔法を使えるのか、全く説明はありません。

そのことに関してはミスター・ミストフェリーズも同じです。
が、ミスター・ミストフェリーズの場合、本当に魔法が使えたのか、疑ってしまうようなリアクションでしたけど。

そもそもジェリクルキャッツって何?

そもそも「ジェリクルキャッツ」とはいったいどういう猫のことなのでしょうか?

町の中で自立してストリートに住んでいる野良猫か、と思いましたが、どうやら飼い猫の中にもメンバーはいるようです。

ジェニエニドッツは飼い猫のようですし。

ということは、ジェリクルキャッツであるために野良猫である必要は、ないようです。

さらにジェリクルキャッツのメンバーの中から一匹だけ選ばれるという猫の座をかけてメンバーは争うようなのですが、彼らのしていることは自己紹介の歌と踊りをヴィクトリアに向けてしているだけ、と思えてしまいます。

そんなことで、何を基準に選ばれるのか?オールド・デュトロノミーの判断基準は全く明かされていません。

登場猫のパフォーマンスは誰向け?

ジェニエニドッツとラム・タム・タイガー、バストファー・ジョーンズなど、彼らの曲と踊りはヴィクトリアに対して行ったもので、生まれ変わるための猫という役を勝ち取るために披露したものではありません。

というのも、この時点で審査をするオールド・デュトロノミーは皆の前に姿を現していないからです。

3匹の猫たちは選ばれることを放棄していたのでしょか?

選ばれてよかったの?

最終的にグリザベラが選ばれたわけですが、気球に乗せられて天高く飛んでいきました。

あのあとグリザベラはどうなってしまうのでしょうか?

    天上に昇って新たな生を得る

というわけですが、別の言い方をすれば

    死んで生き返る

ということではないのでしょうか?

とすれば、年老いて過去の栄光だけに縋り付いてみじめに生きているグリザベラを死なせてあげた、ということにはならないのか、と邪推してしまうのですが…。

まとめ

映画「キャッツ」は映画としてはどう考えても失敗作だと思います。

かなりの部分で中途半端な作品。

リアリズムもそうですし、ミュージカルの映画化もそう。
オリジナルストーリーをそのまま持ってきたことも悪いほうにしか作用しませんでしたし、出演者の名前だけ見ればとんでもないメンバーがそろっているのも、逆に評判を落とす要素になってしまいました。

それでもやはり一流どころを集めたパフォーマンスは素晴らしいものがあります。

グリザベラを演じたジェニファー・ハドソンやボンバルりーナを演じたテイラー・スウィフトの歌は素晴らしかったですし、フランチェスカ・ヘイワードをはじめとしたダンサーたちの踊りもうっとりと見とれてしまうほどです。


この映画の何を楽しみに見に行くか、それをはっきりさせてから映画館に向かうのであれば、とても楽しめる映画だとは思います。

期待していいものに期待し、それ以外は無視をして楽しむ、そういう映画だと思います。











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