映画「MINAMATAミナマタ」は日本の熊本県水俣市を中心に高度成長期にかけて起こった、四大公害病の筆頭に掲げられる水俣病とそれを取材した写真家ユージン・スミスのドキュメンタリー風の作品です。
この映画によって、名前は有名で簡単な内容を知っていた人も詳しい内容、とくに水俣病患者の悲惨な姿を見ることができたのではないでしょうか。
そんな映画「MINAMATAミナマタ」ですが、完全なドキュメンタリーではなく、実はフィクションを交えて映画として作られています。
今回は映画「MINAMATAミナマタ」のノンフィクション部分、フィクション部分を紹介し、それに合わせて水俣病に関するトリビア情報も合わせて紹介していきたいと思います。
映画「MINAMATAミナマタ」はノンフィクション?
ジョニー・ディップが主演と制作に携わった映画「MINAMATAミナマタ」
個人的な感想を言えば、どちらかというと「MINAMATAミナマタ」というよりは「ユージン・スミス」とタイトルにしたほうがしっくりくるような描かれ方でした。
より正確には、
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「ユージン・スミス MINAMATAミナマタを世界に知らしめた男」
でしょうか。
そう感じてしまう内容であっただけに映画のストーリーにはノンフィクションだけでなく、実はフィクションもたくさん含まれています。
それではノンフィクションと脚本によって演出として作り出されたフィクションの部分をそれぞれ紹介していきましょう。
史実に基づいたノンフィクション
まずノンフィクション部分です。
以下の部分が実際に、映画に描かれている通り、起こった出来事でした。
ユージン・スミスの取材が世界に水俣病を知らせた
ユージン・スミスは水俣を訪れる前に、すでに世界的に有名な写真家でした。
第2次世界大戦にも写真家として従軍し、戦場の生々しい写真を撮影していたのも事実です。
映画では詳しく描かれていませんが、戦争で負傷し、その後はその後遺症に悩むことになるのでした。
水俣に訪れて取材撮影をしているころには、後遺症がとても悪化しており、「アイリーンに斧で頭を殴ってくれ」と懇願することがあったほど、苦痛に悩まされていたそうです。
写真家として雑誌ライフ誌に「フォト・ジャールナル」として連載を長年持っていたのも事実で、そのことで彼の写真家としての名前は、確立されました。
日本でも認知されており、映画での演出があったように、ユージンの写真に感化され、写真家になった人物も多くいたのです。
そしてライフ誌の取材の一環として、水俣病を取り上げ、その記事と彼が現地で撮影した写真が紙面に載ったことで一気に「水俣病」が世界的に知られることになりました。
実際には1950年代には「水俣病」という名前はすでに公式に発表されており、1960年代には次々と水俣病に関する論文が発表されていて、専門家や関連業界ではすでによく認知されてはいたのです。
がなんといっても、一般の人々、それも日本国外の人々が「水俣病」という名前に触れたのはライフ誌に掲載されたユージンの写真と記事である、と言えるでしょう。
その後、公害による水銀中毒が原因での中毒性中枢神経系の病気を「○○水俣病」と名づけられることとなります。
それは日本だけでなく、海外で起こったケースでも同じで、1970年にカナダのオンタリオ州で起こった公害病も「オンタリオ水俣病」、「カナダ水俣病」と呼ばれているのでした。
「入浴する智子と母」は世界的なフォトジャーナリズム写真
映画内では本名「上村智子」が使用されず「マツムラアキコ」となっていました。
胎児性水俣病患者である「智子」を抱いて母が一緒にお風呂に入っている写真、
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「入浴する智子と母(Tomoko and Mother in the Bath)」
は写真家ユージン・スミスの代表的な作品となっています。
この写真はユージンが水俣を訪れた最初の年、1971年12月に撮影されており、その構図から、キリスト教の聖母子像のなかで、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵の事を指すピエタを思わせるものとして高い評価を受けているのでした。
映画では実際にユージンが撮影したものではなく、映画の撮影中に写真として撮影されたものが使用されていました。
ユージンは取材中にひどい暴行を受けた
ユージンの日本滞在は1971年から1974年の3年間に及びました。
その滞在中、映画で描写があったようにチッソ工場での抗議運動を撮影していた際、工場側職員約200人による抗議者側20名の強制排除に巻き込まれ、酷い暴行を受けてしまいます。
実際にはカメラを壊されたうえ、脊髄骨折、片目失明という重傷を負います。
複数の医療機関を訪れて治療しましたが、完治することありませんでした。
晩年、後遺症はひどくなり、ピントを合わすこともシャッターを切ることもできなくなってしまったほどだったのです。
映画のエンディングで紹介されたように、ユージンはこの時受けた傷の後遺症が原因の一つで、59歳という年齢で死亡したのでした。
映画用のノンフィクション部分を紹介
続いて映画で演出として使用された、史実とは異なるノンフィクション部分を紹介していきましょう。
アイリーンがユージンに水俣病を教えていない
映画は1971念から始まりますが、アイリーンとの出会いは1970年でした。
この年の8月、ユージンが51歳のときにニューヨークのマンハッタンにあるロフトでアイリーンと出会います。
映画で描かれたとおり、富士フイルムのCMでのユージンへのインタビューに大学生のアイリーンが通訳を務めたことがきっかけでした。
史実では、彼らが出会ってわずか1週間後、ユージンがアイリーンに自分のアシスタントになり、ニューヨークで同居するよう頼んだそうです。
この申し出にアイリーンは承諾。
そのまま大学を中退、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らしはじめたのでした。
そして水俣病に関する撮影と取材ですが、実際はユージンと親交のあった元村和彦が彼に提案したのです。
この元村和彦という人物は、写真集の出版を手がけた写真編集者で出版社邑元舎を設立、主宰した方です。
1970年秋に渡米し、ニューヨークでユージンらに来日して水俣病の取材をすることを提案したのでした。
これに同意したユージンとアイリーンは1971年8月16日に来日。
映画で紹介されたとおり、8月28日にユージンとアイリーンは婚姻届けを提出します。
そして二人は9月から水俣市に移り住み、1974年10月まで3年間とちょっとの期間、水俣病と患者、そしてその家族の取材を行ったのでした。
ユージンの取材前から水銀が原因と判明していた
映画では詳しく語られていませんが、水俣病は1950年代からすでに被害が報告されていました。
原因究明の研究もおこなわれ、1959年には熊本大学水俣病研究班が水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的と発表しています。
1960年にはいるとさらにチッソの工場から排出された水銀が原因であるという論文がいくつも発表され、1968年には厚生省が水俣病を公害病であると認定します。
その際、「熊本における水俣病は、新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因である」と発表したのでした。
つまり、映画の中で描写されたような、ユージンとアイリーンがチッソ工場附属病院に侵入して水俣病の原因が水銀であることを知っていながら隠していた、という事実はなかったのです。
ユージンが暴行を千葉県で受けた
映画内でユージンがチッソ工場と抗議者との間で起こった暴動に巻き込まれ、暴行を受けて大けがを受けたシーンがあります。
この事件は本当にユージンが体験したものですが、規模や時期、場所は全く異なっていて映画の演出として大幅な変更がなされていたのでした。
実際にユージンが暴行を受けたのは1972年1月7日。
場所は千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場を訪問した際に起こったものだったのです。
チッソ五井工場に水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名に訪れますが、ここで職員約200名から強制排除を受けます。
ですので、映画のような描写は完全なノンフィクションであり、またユージンは暴行を受けた後、「入浴する智子と母(Tomoko and Mother in the Bath)」を撮影したのも、映画の演出となるのわけです。
この時の暴行で脊髄骨折と片目失明という重傷を負いました。
またこの時の傷がもとで後遺症を患い、いくつもの医療機関で治療を行うも完治せず、晩年、神経障害と視力低下にも悩まされることになります。
そして59歳という年齢で脳溢血の発作を起こし、そのまま亡くなったのでした。
水俣病に関するトリビア
映画「MINAMATAミナマタ」を視聴したことで、有名な事件名と簡単な内容は知っていたものの詳しくは全く知らなかった水俣病について調べてみたくなりました。
そして実際に調べてみると、いくつもの興味深いことが分かったのです。
最後のそれらのいくつかを紹介しておきましょう。
水銀による中毒症について
水俣病は水銀を体内に取り入れた結果起こる中毒性中枢神経系症のことになるそうです。
しかも公害によって水銀を体内に取り入れることになった場合のみ、水俣病と認定を受けることができるのでした。
というもの、水銀は自然界に存在し、特に魚介類を食することで昔から人々は体内に摂取してきていたのです。
が、そのような方法で水銀を摂取しても体外に排出するように体が対応しており、病気になることはありませんでした。
水俣病が発症した理由として、体内で処理できないほどの量の水銀を、長期にわたって接種したことにより、体内蓄積されたためでした。
そしてその影響で中枢神経に異常をきたすほどの影響を受け、発病するに至ったのです。
被害が拡大した理由
水俣病がこれほど大々的に公害病として有名なのは、その被害が広範囲に及び、患者数も膨大だったからでした。
というのも、水俣病が起こった原因が判明するまで長い時間がかかり、その間、工場側は対策をせずに公害を垂れ流し続けていたからです。
ただ、資料を読んでみると事件発生当時、そのような反応をしてしまったのも分かる気がしました。
一番の原因は、工場が輩出していたのは無機水銀であり、水俣病の原因となる有機水銀ではなかったことにあります。
チッソ水俣工場は、アセトアルデヒドを製造していて、その過程で無機水銀を海に排出していたのですが、当時日本国内に7か所、海外に20か所以上、同じ工程でありアセトアルデヒドを製造していた工場がありました。
それらの工場の中には水銀を未処理で排出していた場所も存在したのですが、水俣ほどの被害を引き起こした工場はなかったのです。
しかもチッソ水俣工場は第2次世界大戦前からアセトアルデヒド生産を行っていたにもかかわらず、有機水銀中毒である水俣病が発生したのが1950年を過ぎてからであり、その原因は今でも明確な理論がわかっていないほどでした。
これら事実が化学工業界の有機水銀起源説の反証として利用されててしまい、その結果、研究が進まずに発生メカニズムの特定を致命的にまで遅らせることとなったのです。
今現在でもチッソはチッソ株式会社として存在しますが、会社は水俣病の補償業務を専業として存続しているだけなのです。
まとめ
いかがでしょうか。
映画「MINAMATAミナマタ」ですが、内容は写真家ユージン・スミスが水俣病を世界に対して発信したことがメインに描かれています。
そのため水俣病に関する描写が、ユージンの活躍を強調させるために、事実と異なっているのでした。
映画として成立させるためには仕方がない部分もありますが、で、あれば「MINAMATAミナマタ」とタイトルにするより、「ユージン・スミス」としたほうが正しく、ミスリードしないタイトルであったと感じざるを得ませんでした。
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