映画パッセンジャーのネタバレ感想!ラスト結末の選択に賛否両論?

映画

感想と疑問。ストーリー内での究極の選択は2つあると思うこと。

映画を見終わってのボクの感想

SF映画ではありますが、SFがメインではなく、ジムとオーロラのラブストーリーがメインだと
思います。ただ、話の展開をすすめる上でどうしてもSF上での設定以外ではできないため、
宇宙と宇宙船が舞台になったという感じでしょう。

他の感想を見るとご都合主義という意見がありますが、話を進めていく上でこれらの設定が
なければ話にならない以上、ご都合主義というのは的はずれな気がします。

例えば最初に覚醒したジムがメカニックで機械に詳しいバックグラウンドを持っていたから
オーロラを覚醒させることができましたし、壊れつつある宇宙船も直すことができたと
いえます。

これが農夫だったとか、ダンサーだったかであれば、誰一人覚醒させることができず、
孤独の上に自殺して話がおしまいとか、宇宙船を修理することができず、全員が死んで
終わり、ということになってしまいます。
逆に農夫やダンサーと言う設定でジムばりに宇宙船を修理したりしたら、それこそ説得力が
無く、ご都合主義だと思います。

またオーロラの設定も魅力的でした。
ジャーナリストであったため、一目惚れしたらジムがオーロラの人となりを彼女の作品を
通じて知ることができ、更に好意をつのらせていけたわけです。
容姿だけで気に入って覚醒させたら性格がひどかったというのであれば、その後のロマンス
に進展しないでしょうし。

全体のストーリーとしてオーロラが最初ジムといい関係になり、絶頂の頃合いでジムが
したことをオーロラが知るという展開は見えていました。
とはいえ、オーロラがジムの寝込みを襲い、殺害の一歩手前までいきそうになったシーンは
予想していなかったので、少し驚きでした。
そこまで嫌っていたオーロラが、ジムが宇宙船の外に出る前に、「必ず戻ってきて、一人
では生きられそうにないの」というまでになるのが、しっくり来なかったというのが正直な
感想です。

生物としての人間が、子孫を起こすチャンスが小さくなると逆に子孫を残そうという努力を
する、という話を聞いたことがあります。つまりそういうシチュエーションによっては、
男女が結びつきやすくなる傾向にある、ということらしいのですが、それも一要因として
あるのでしょうか?

全体的にエンターテイメントとして十分楽しめる作品だと思います。
ジェニファー・ローレンスの演技や表情も見ていて素晴らしいと思いますし、アンドロイド
として少しすっとぼけて抜けている天然キャラのようなアーサーもいい味出しています。
孤独に押しつぶされそうになっている頃のジム、オーロラの気を引こうと一所懸命なジムも
共感が持てますし、僅かな登場後死んでしますガスの存在感も素敵でした。




究極の選択、あなたならどうしてました?

ところで究極の選択になると思いますが、ラストのオーロラの選択はある意味、想像がつく
ものでもありました。
あらすじでは紹介しませんでしたが、オーロラが友達からのメッセージビデオを見る
シーンで彼女の親友からのメッセージが結構重要な役割を持っているように思います。

親友が言うにはオーロラは地球上ではいつも楽しそうではない、何をしても満足感は得て
いなさそうだったそうです。幸福になるためにとてつもない大きなことをしなくてもいい、
今を楽しんで、もし誰かに会えたなら受け入れることをしてほしいというメッセージでした。

案外、オーロラは偉大な作家であった父親を自分自身で大きなプレッシャーにしていた
のではないかな、と思ったりもしました。

ボク個人としては究極の選択はジムがした行為の方だったと思います。
つまりオーロラを覚醒させてしまったこと。

彼の立場で覚醒させてオーロラと一緒に過ごすことを可能にするという選択としないという
選択の2つを取ることができました。
で、自分があの状況にあったとしたらどちらを選んでしまうのだろうと思い悩んだのです。

結果的に2人は恋に落ちてハッピーエンドとなりますが、そうなる保証はどこにも
ありません。しかも覚醒させることはあくまで覚醒させる側のチョイスであり、させられる
側にはまったく選択の余地はないのです。

オーロラがこれは殺人だ、とコメントしていますが、同じ殺人でもストーカー殺人で
被害者にとってはたまったものではないですよね。

とはいえ、1年間一人という究極の状態では、ジムを襲った欲望に打ち勝つだけの精神を
ボクは持っていないので、ダメとわかりつつ覚醒させているのだろうな、と思って
しまいます。

おまけ カットされた2シーンの紹介

編集でカットされた部分でカットしないほうが良かったのでは、というシーンを紹介します。
覚醒したオーロラがジムと食事をしながらお互いのことを知ろうと会話をするというもので、
ジムはデンバーの出身でメカニック、オーロラはニューヨーク出身のジャーナリストと
打ち明けます。オーロラはどの街に行っても長いこと生活することができず、常に
ニューヨークにもどってしまうと続けます。そしてニューヨークでクライスラービルを
眺めながらコーヒーを飲むのが一番で一日中執筆していられる、と答えるのでした。

ジムがクライスラービルのミニチュアを作ってオーロラにプレゼントした理由はこの会話
からで、このシーンをカットしたことで、本編でオーロラがクライスラービルを手にして
微笑んだシーンを見た時、なぜ、という小さな疑問がでてしまうことになったのでした。

逆になぜそんなシーンを入れようとしたのか、というものもありました。
オーロラとジムが仲違いをしている期間、オーロラからジムにテレビ電話がかかってきます。
オーロラからのコンタクトに最初少しは期待していたジムですが、オーロラがもし
この状況でなく、2人が出会うことがあったとして、彼女が彼のような男性を相手にしたと
思うのか、という質問に傷つき、何も答えず電話を切るというシーンです。

オーロラはお酒によっていると会話の冒頭で言っていますので、一種のアルコールトーク
ではありますが、あまりにひどい話でかなり引いてしまいます。
電話が切れた後、自己嫌悪に電話端末に八つ当たりするオーロラの姿も写っていましたが、
それにしても、そんなシーンを見せつけられた後、また2人が一緒になったとしても
感情移入しにくくなるよな~と思いました。

このシーンはカットして正解だったと思います。










コメント

  1. ほしほし より:

    読み応えのある総評、楽しんで読ませて戴きました。
    ありがとう。

    期待以上に面白い映画でした。
    賛否となった「ジムがオーロラを起こした行為」ですが、僕はうまく回収できていると思います。
    勿論この行為自体は許される事ではなく、その行為そのものは劇中内でも決して肯定されることはない。
    だから、映画を見終わった段階で僕はこの作品に対して「否」にはならなかった。

    んで、その回収方法ですが、
    原案の脚本では、他の5000人以上が死ぬことで、「起こされていなければ、オーロラもこの時点で死んでいた」と言う形にすることで、「起こして良かった」と成立化させた。
    一方映画では、冬眠し直す方法を見つけ、過ちを取り返せる(オーロラからすれば、被害を取り戻せる)状態になった、そのうえでオーロラが自分の意志で共に起きている事を選ぶ事で成立された。

    原作案はあくまでも結果論でしかなく、オーロラも「起きて良かった」と思ってはいるだろうが、自分の選択が及ぶ範囲の話では無いので、いわば消極的結論。ジムも自分自身で何か責任を果たした訳ではない。むしろ5000人を死なせてしまったのはマイナスの出来事。
    映画版はオーロラ自身で、自分にとって幸せはどちらかを自分の意志でキチンと選択してるので、積極的選択。
    ジムも、オーロラに本来の人生を取り戻させる方法をオーロラ本人に提示できた。

    他の5000人を殺す事で成立させる原案よりも、自分で幸せを選び、他の大勢も不幸になってない映画版が好きだ。
    あと、原案の「生き残った男女が人類の再建のために子供を大勢作ってアダムとイブになる」ってのは、正直やりつくされてる感があって好きではない。
    藤子不二雄さんの漫画にもあったし、昔から良くあるアイディア。
    これが映画の結末だったら、「ありふれた結末の作品だな」って印象で終わってた。
    だから僕は映画版で良かったと思う。

    • takmori83 より:

      ほしほしさん、コメント、ありがとうございます!

      このパッセンジャー、本当にうまくできているな、と今思い出しても感心してしまいます。
      唯一、僕の中で違和感があったのはあそこまで毛嫌いしていたオーロラがジムへの態度を変えていくあたり。

      ガスが起きたせいでオーロラが自分の中にたまったうっぷんを吐き出せたからなのかも、と今になっては思ったりしますが。

      あと、二人の間に子供ができたのかどうか、はっきりとは語られていないところもよかったかなと。

      今となっては、ふたりは幸せだったとは思いますが、どちらかが寿命で先に逝ってしまったあとは、生き残ったほうにどんなインパクトがあったのか、なんてことも考えてしまいます。

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